正月は例年、近くに住む両親の家に一同が集まって食事をするのですが、今年は母がのんびりしたいと言うので、急遽私の自宅でということにしました。
おせちを「買う」という手も考えたのですが、味付けが濃かったり甘すぎたりで残してしまうことが多いので、自作ということに。それで、地元の魚屋さんが拡大した食品スーパーであれこれ買い込んで、切ったり料理したりして重箱に詰めました。
その中で、数の子の塩抜きをして味付けをするという仕事は初めてのことで、これがうまくいくかどうかがいちばん心配でした。しかも、大晦日の夜になってからやり方を調べて取り組むという泥縄式でした。しかし、おかげさまで、なかなかの好評でほっとしました。
これにはWeb上の情報にとても助けられました。いろいろな人が親切に書いてくださっていてありがたいことです。そして、味は私が作ったわけではなく、実は「創味のつゆ」です。これは8倍ぐらいだろうと見当を付けてやってみたところ、正解だったようです。
女が大掃除をして、男がおせちを作るというのは、一般的なイメージからは逆かもしれませんが、うちの場合は、お互いの得意分野からそうなりました。いやいや、“伝統的”な家では、力仕事を除いてはどちらも女性がするのかもしれません。
また、料理の方法と味付けは母親から娘や嫁に伝えられるべきものだと考える人もいるでしょう。そういう人からすれば、男が担当して、しかもWebの情報に教わって、味の決め手はメーカーによるなどは、眉をひそめるべきものとなるでしょう。
しかし、うちの事情を言えば妻の母親は早世しています。妻と私の母の仲は円満ですが、離れて暮らす母から妻に毎日のものを伝えてもらうというのは現実的でありません。そもそも、妻も私も、毎日の食事の支度を妻がするべきとは考えておらず、その日ごとにできるほうが担当すればいいという考え方です。食べるものについても、子供の頃から食べてきたものをどうしても食べたいとはとくに思わず、今おいしいと感じるものを食べたいという風です。
家族のあり方については、それぞれの人や家の考え方があって、急激に何かを変えるべきという意見をするべきではないとは理解しています。ただ、変わりゆく世界の中で、いちばん大事なことをいちばん大事にするために、優先順位をつけて考えることがいちばん大事なことでしょう。
思うに、そのいちばん大事なこととは、家族が集まって楽しく食事ができることです。その中身がおいしいかどうかは、「楽しく」につながることとしてもちろん大事ではありますが、それゆえに、より下位です。誰がどのように作るべきかは、それが家族の成り立ちの根幹だと考えている場合には筆頭に来るものかもしれませんが、私の場合は、誰かがその縛りのために苦しむのであれば「楽しく」を壊しますから、その優先度は下げたほうがいいと考えています。
おそらく、家族というものは人が生きていれば自然に出来上がるものではなく、一人ひとりの力で創造するものです。そして家族を取り巻く社会環境は常に変遷していっています。その中で、一人ひとりの役割は変わっていきますし、産業の役割も変わっていきます。
“伝統”というものも実は高度に人工的な概念なのですが(詳しくは、エリック・ボブズボウム、テレンス・レンジャー「創られた伝統」紀伊國屋書店)、社会や家族を安定させるために有用なものであれば利用すればいい。しかし、家族の「楽しさ」の障害となる“伝統”は、見直していくべきでしょう。
たとえば、仕事ができる女性、いきいきと働く女性をつかまえて、“仕事に打ち込む女 → 料理を手作りしない女 → 伝統の破壊者 → 不幸になればいい”式に考える風をしばしば見かけますが(男女の両方にそれが見られ、ときに働く女性本人がそう思い込んでいる例も)、それは“伝統”を重んじることの暗黒面です。
※このコラムはメールマガジンで公開したものです。