平成26年度「国語に関する世論調査」(2015年1月~2月調査)の結果がこのほど発表されました。
- 平成26年度「国語に関する世論調査
- http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/h26_chosa_kekka.pdf
このなかで、「今の国語は乱れていると思うか」の問いに「乱れていると思う」と回答した割合は73.2%(計)で、15年前の平成11年度調査の85.8%より10ポイント以上低下しました。
これは言葉の「乱れ」つまり変化が収まったというよりも、むしろ言葉の変化をよからぬことと目くじらを立てる人が減ったことを表しているように思われます。
私たちが古文の勉強で苦労したように、言葉は変化していくものです。あまり無理に変化を抑えるべきではないでしょう。大切なことは、今同じ時代を生きるなるべく多くの人とスムーズに話が通じることです。これには同世代の人ももちろん含まれますが、年齢が上の世代・下の世代も含まれます。言葉の「乱れ」を意識する人が減っているのは、案外と、年齢差を超えたコミュニケーションが活発になっていることを反映しているのかもしれません。
文化的な「乱れ」として話題に上るものには、「食生活の乱れ」というものもあります。10年以上前のことですが、消費者の食事の実態調査を行った研究を報告する書籍を手にしたとき、丁寧な調査と客観的で深い洞察に富む分析に感心しながら読んでいたのですが、ある箇所で研究者の主観を突き付けられて驚いたことがありました。ある主婦の報告で、朝食が菓子パンだったというものがあったのですが、報告書はそれを「食生活の乱れ」として紹介していました。
そのような朝食の評価はさまざまあるはずです。栄養士は野菜とタンパク質が不足していると指摘するでしょう。医師には同様の指摘をする人がいる一方、起き抜けに適度に血糖値を上げることを評価する人もいるでしょう。学校の先生も栄養士と同意見の人がいる一方、朝の集会で倒れる心配が軽減されると安心する人もいるでしょう。それを出された子供はどうか。朝から甘いものが食べられてうれしい場合もあれば、お母さんやお父さんが作ってくれた温かいものが食べたかったと寂しく思う場合もあるかもしれません。その朝食を出した人はなぜそうしたかも考えておく必要があります。夜が遅く、朝はとても忙しく、それでも何も食べないよりはと選んだものかもしれません。
評価は一様ではないはずですし、こうした現象を「乱れ」なのかそうでないのか、つまり善・悪の判定を下そうとするべきではないでしょう。
この種の「乱れ」の指摘というのは、得てして「昔がよかった」という話が前提となります。では昔の日本人は朝食に何を食べていたのか。文献や民俗調査の報告書を当たれば、意外と貧弱な朝食の話が出てくるものですし、そもそも起きて間もない時間の朝食という文化さえ必ずしも一般的であったとは言えないようです。親子全員そろっての食事というものもまた、割と新しい文化だとわかるものです。
食事もまた、時代とともに時間の取り方、いっしょにいる人、食べるものの内容が変わっていくものです。過去と違うから「乱れ」と断ずるのではなく、今の時代の状況のなかで合理的に考えていきたいものです。つまり、他にもすることが多い生活の中で無理なく用意できて、栄養もよく、心も充足するものを選んでいくということです。もちろん朝食だけのことではありません。
栄養については、栄養士や疫学の研究者の活動に期待したいところですが、「心も充足する」ものを提案できるのは、やはり食品・料理を扱っている人のはずです。小売でも外食でも(いわゆる中食でも)、これからは食事を総合的に検討した上での提案力の競争となっていくでしょう。
※このコラムはメールマガジンで公開したものです。