今日は三島由紀夫の命日です。かの作家の晩年の思想と没した日の行いについての論評は避けますが、いわゆる三島事件のおよそ5カ月前の1970年7月の産経新聞夕刊に掲載されたエッセーの下記の部分は、思想信条の如何によらず、日本人はときどき思い出すのがいいと思っています。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」
(「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」産経新聞1970年7月7日夕刊より)
最近の日本は、この「富裕な」というところが抜け落ちたか、抜け落ちたと感じる人が多い国になっているようです。
そして、「無機的な、からつぽな、ニュートラルな」ものになり果てることへの抗いなのか、「クールジャパン」なる官製のかけ声もあるためなのでしょうか、どうも日本の技術や文化がたいへん優れたもので、しかも昔からそうであったという思い込みが世間にみなぎっているように感じます。
今の日本のモノ作りは優れているといいます。それはそうでしょう。しかし、昔はそうではなかった。私が子供の頃は「日本製」「国産」「メイド・イン・ジャパン」というのは、何かちゃちなもの、立派そうに見えても表面ばかりまねたジェネリックで、実は壊れやすいものという印象があったように思います。同様のものなら「輸入品」「インポートもの」「舶来」のほうが上でした。
それを、戦後学んだ統計を活かした品質管理とQC活動、それに加えて従来の日本人持ち前の勤勉さ、無理でもあきらめないがむしゃらな努力によって、よいものを作れる国を作ってきた。日本は昔からよかったと簡単にとらえてしまうことは、先輩達のこの数十年間の仕事の評価になるでしょうか。若い人たちがこれから努力する原動力になるでしょうか。
日本の食文化なるものへの礼讃も、やや度が過ぎたものが多くなってきたように感じています。確かに、経済が豊かではない感覚が20年続きながらも、私たちは毎日なかなかいいものを口にしているようです。でも、それらは昔からあったものですか? 戦前あるいは江戸時代あるいはその前の時代、果たしてよい食事、よい酒、よい栄養状態というのはどの程度あったのか。野菜でも肉でも生で食べる習慣はいつ頃庶民に普及したのか。いや、そもそも我々庶民が肉や魚を普通に買って来て食べられるようになったのはいつ頃からだったか。脚気、回虫、ギョウ虫などはいつ頃珍しくなったのか。子供たちはいつ頃から青洟をたらさなくなり、身長や脚が伸びたのか。それらは、何によって、誰の努力によってもたらされたのか。
その辺りをいつももっと謙虚に振り返り、次の努力をすることが、私たちの国の美徳であってもらいたいものです。
※このコラムはメールマガジンで公開したものです。