夏場はよくラタトゥイユを作って、冷蔵庫に冷やしておきます。学生の頃はズッキーニを入手するのに苦労して、これだけを買いに背伸びをして高級スーパーに行ったものです。しかし今は通い慣れたスーパーマーケットに普通に並び、さほど高価なものでもなくなりました。
トマトは最初の頃は生鮮を使っていましたが、酸味が立ってしまうのでサンマルツァーノのボイルなど缶詰の輸入品を使うようになりました。これなら加熱しても味は穏やかで、他の材料にもよくなじみます。加えて、今や1缶100円で手に入るスーパーもあって、材料費の面でも助かります。
ただ、その中身を鍋の中で握りつぶしながら、「どうして日本では加熱調理用トマトを作らないのだろう?」と不思議に思ったものです。日本の気候に合う品種がないのか、ないのならばなぜ育種しないのか。
この理由は、市場と農業界の“思い込み”にあったようです。つまり、「加熱調理用トマトは売れない」という先入観です。
そんな中、7年ほど前にパイオニアエコサイエンス(東京都港区、竹下達夫社長)という会社が加熱調理用トマト「シシリアンルージュ」をリリースしたときには、それを実際に加熱調理して食べて、日本のトマト・シーンにもやっと新しい風が吹くと感じてわくわくしたものです。
従来の日本のトマトの育種は“甘さ”を狙ったものだったと言えるでしょう。真っ赤に熟れたトマトにかぶりつく、きれいにカットしてサラダに並べる、そうした生食で価値を打ち出すには、糖度と適度な酸味のバランスがポイントとなるでしょう。
一方、シシリアンルージュの場合は、甘味ではなくうま味成分(グルタミン酸)の多さを狙って育種が行われました。しかも、この品種は湯むきがしやすく、加熱するとほどよくとろけ、うま味も増す特徴を持っています。私がこれで最初にトマト・スパゲティを作ったときは、大食いではない妻子もあっと言う間に食べてしまって「もうないの?」と聞いてきたほどです。さながら、この果実そのものがよくできたトマトソースのように感じました。
だから、「これは売れるだろう」と思いました。ところが、パイオニアエコサイエンスの竹下社長にお会いすると、もちろん売れると自身満々である一方、ちょっと悩みがあるということでした。というのは、生産者の反応が思ったほどではないというのです。前述のとおり、「加熱調理用トマト? それは売れないョ」と一蹴するタイプの生産者が多いと。
ところがです。まずイタリアンなどの料理人がこれに注目しました。さらにそれだけでなく、食べること、料理することが大好きという人たちの間で、「シシリアンルージュというおいしいトマトがある」という話は、折からのブログ・ブームもあってまたたく間に広がりました。スーパーでは品薄。量が揃わないので扱えないというところも多かったのです。
それでも「加熱調理用トマト=売れない」と考える農家の思い込みは強く、一気に供給が増えるようには行かなかったようですが、最近はやっとスーパーでも目にする機会が増えました。
しかし、私はスーパーに並ぶシシリアンルージュに2つの不満を持っていました。
まず、価格が現実の利用に合っていないということです。私の家の近所のスーパーでよく出るのは、十数粒入りで300円程度のものです。そう聞けば高くはないだろうと思われると思いますが、私はこれをたっぷり使いたいのです。
十数粒をスパゲティに使うとすると、2人前でぎりぎり、3人家族以上では不足ということになります。また、このトマトの最高においしい食べ方の一つが、鍋料理なのです。たっぷりのシシリアンルージュを土鍋にあふれるほど入れて火にかけ、とろけてぐつぐついうトマトソースになったところで豚肉や魚介類を入れて食べると、つい食べ過ぎるほど食べてしまいます。が、スーパーでこのために必要な量のシシリアンルージュと肉・魚介類を買うと、財布から軽く数千円がなくなってしまうのです。
不満のもう一つは、ヘタです。近所のスーパーに並ぶシシリアンルージュは、ほとんどの場合ヘタが付いています。これを湯むきして調理に取りかかろうとする際には、まず1個1個をつまみ上げてヘタを取らなければなりません。ヘタが取れやすい品種なので、1個ずつの作業はラクですが、量をこなすにはうっとうしいものです。
以前、イタリアンのお店の厨房をのぞいたときには、ヘタなしで箱詰めされて届いているシシリアンルージュを見かけました。家庭用にも、あのようにいっそヘタなしでパック詰めしてくれたらいいのにと思っていました。
これらのことを同社に伝えたいなと思っていた矢先、不思議なもので先方から連絡がありました。新しい栽培法の試験・普及をしているから見学に来ては、ということでした。
新しい栽培法は名付けて「ソバージュ栽培」。露地で、しかも誘引(茎葉を支柱に適切にはわせる)や芽欠きなど整枝の作業を極力減らすというものです。
“ソバージュ”(野生)という言葉から、ちょっと粗放な栽培をイメージして出かけたのですが、実態は違いました。圃場に立てた天地2mほどのU字支柱にキュウリネットをかけて、それにシシリアンルージュはじめ同社の各種トマト品種が整然と並んでいました。根もとを見ると、地面から50cm程度までは脇芽を除いていますが、そこから上は脇芽を欠く作業は一切せず、ほぼ伸び放題。それらの茎葉が重なり過ぎないように最低限の整枝は行うということですが、茎、葉、実は伸びる・成るに任せるということです。
農家でなくとも、貸し農場などでトマト栽培をやってみたことのある方ならおわかりと思いますが、普通のトマトは丁寧にコツコツと整枝を行わないと、あっと言う間にめちゃめちゃな姿になります。ところが、もともとイタリアの露地栽培品種の系統を親に持つシシリアンルージュ等の品種でこの“放任栽培”をやってやってみたところうまくいったということです。
さらに、この栽培法で同社が推奨している収穫法は、ヘタなしでもぎ取る方法です。
前述のとおり、シシリアンルージュは実とヘタが離れやすい品種です。熟した実をつかんで優しく引くだけで実ははずれ、後にはかわいいヘソが残るだけです。それでも、“伝統的な見栄え”を意識する生産者は、用心深く実をつかみ、ヘタのほんの少し上のところにそっとハサミを当てて、ヘタが取れないようにわざわざ苦労して収穫していたということです。
シシリアンルージュの収穫方法を廃止すれば、作業はラクでスピードも格段に上がります。もちろん、調理する人にも喜ばれるやり方です。
ソバージュ栽培は、施設(ハウス)が不要で作業量も大幅に減るので、“土地利用型”の畑作と“手塩にかける”タイプの園芸の中間的な栽培と言えるでしょう。水田転作も可能でしょうし、津波被害のあった圃場で、あまりコストと人手を要さずに比較的付加価値の取れるものとしても有望なように思われます。もちろん、大事に可愛がって1個ずつ箱詰めするようなトマトよりも単価は下がるでしょうが、トータルの生産性を比べてみる価値はあるでしょう。
最近は他の種苗メーカーも加熱調理用トマトを手掛けるようになってきました。品種と栽培方法の多様化で、日本のトマトは、これからまだまだ面白いものになっていくでしょう。
※このコラムはメールマガジンで公開したものです。