《前回のつづき》「エル・ブリ」※は新しい料理のアイデアをたくさん提案しました。素材をロボにかけてガスで押し出してムース状にしたり(エスプーマ)、液体を人工イクラのようにして料理に添えたりといった仕事は全く化学実験のようで、これにはこれでフレンチ的(それがフレンチではないにせよ)な発想の極限はこうかと思わせられました。
昨年の暮れに、スペインの友人がオフィスを訪ねてくれたとき、外交辞令も織り交ぜて「エル・ブリ」のことを(前回述べたように私は行ったことはないわけですが)少々ほめて話しました。
すると、その友人は「言いたいことはわかる」と笑顔でうなずきながら、しかしちょっとだけ眉をしかめて英単語をつぶやきました(私はスペイン語は話せないので、私たちは英語に日本語を交ぜて話します)。ただ、その英単語は私は知らないものでしたので、2人で辞書を引きました。
「licentious」であったか、今その英単語を正確に思い出せませんが、辞書を見て彼が「これ!」と言った訳語は「みだら」というものでした。これがこの友人の感想です。
この友人は私よりはるかに合理的な考え方をする人ですし、大学で畜産と食肉加工を勉強した人で近代農業と食品工業のなんたるかについて自身の意見を持っている人で、現在はメディアの仕事をしているのでいろいろなものに触れ、さまざまな情報を持っています。その彼にして、フェラン・アドリア氏の仕事は居心地悪く感じていたようです。素材から飛躍しすぎること、官能を追求しすぎることはよくないことだというのが、彼の感覚でした。
「みだら」と言っては言葉が過ぎると感ぜられるかもしれません。ただ、これはアドリア氏や氏の多くのファンを悪く言うつもりではなくて、感覚のズレを彼がそのように吐露したとご理解ください。どのような料理を作り、どのように楽しむかは一人ひとりの嗜好とセンスの問題ですから、作り手と食べ手が認め合う関係があるならば、そこはなるほどとうなずくべきでしょう。その上で、私の友人というある人が「エル・ブリ」を選ばない理由がその言葉であったに過ぎません。
いずれにせよ、彼がそう話したのを聞いて、西洋料理をすべて錬金術の裔、化学と技術だけで理解してしまおうというのは間違いかもしれないと気付いた次第です。とすれば、フレンチをはじめとする西洋料理と日本料理が、今後さらにどのように歩み寄っていくのかも、たいへん興味を引かれるところです。
その後、私たちは刺身と魚介の塩焼きを食べに居酒屋へ行きました。この友人はツメを塗ったアナゴが大好物なのですが(この加工は“みだら”ではないようです)、その日は卓上コンロで白焼きを焼いて食べました。友人はこれもとてもおいしそうに食べていたので、彼が料理で付けた甘味があるとないとにかかわらず、アナゴそのものが好きらしいということがわかりました。《この項終わり》
※店名「El Bulli」は、スペイン語(カスティジャーノ)の順当な読み方では「エル・ブジ」となるようですが、山本益博氏は「エル・ブリ 想像もつかない味」(光文社)の冒頭で、店のあるカタルーニャでの発音は「エル・ブリ」であり、経営者にも聞いて確認したそうであると説明しています。
※このコラムはメールマガジンで公開したものです。