山下公園と言えば、首都圏の方にはおなじみの、横浜にある臨海公園です。観光地であり、デートコースであり、市民の憩いの場です。芝生と花壇と海と――鮮やかな色の競演を眺めながら平坦な園内をそぞろ歩きできるのも、もうじきのことです。
私のように海辺の生まれの者からすると、港というものは倉庫があったり車や重機が忙しく動いているイメージがあります。ですから、横浜のような重要港湾のど真ん中の立地であのようなのんびりした場所があるのは不思議でした。
今週の木曜日、3月15日がその山下公園開園の日だそうです。
横浜は、かつては人の少ない寂しい村であったと言います。それが1859年の開港以来国内外から人が集まり、舶来の文物にあふれる先進的な街として発展しました。しかし、それからわずか六十余年後の1923年9月1日、関東大震災によって一帯は灰燼に帰します。
その瓦礫の集積場として指定されたのが、後に山下公園となる海岸でした。震災直後からここを遊歩道として造成する案が起草され、後に公園として整備する案となり、7年の歳月を経て1930年に開園したということです。開園直後には、園内で復興記念横浜大博覧会が催されました。
昭和生まれのよそ者にはわからない歴史があったのです。そして、公園の足もとには今も、江戸後期から大正時代までの横浜という街の記憶、人々のさまざまな思い出が眠っているのでしょう。
山下公園には埠頭を設ける案もあったそうですが、これは実現しませんでした。ただ、一箇所桟橋が設けられて氷川丸という船が係留され、この公園にとってなくてはならない景観を作っています。
面白いことに、この船が竣工したのも、1930年だということです。もちろん、出来てすぐにここに係留されたのではありません。まず太平洋航路に就航して人気を集め、戦争が始まると病院船となり、数度の触雷にもかかわらず生き延び、戦後は引き揚げ船として奔走、その後北海道航路で食料品や石炭輸送に従事した後、現役を退くまでの7年間は再び美しい客船の姿を取り戻して国際航路に復帰と、波瀾万丈、大活躍の履歴をたどります。
引退したのは1960年で、翌1961年にこの同い年の公園にやって来ました。幸運な船と言えるでしょう。
1930年と言えば、タイタニック遭難から8年。この頃欧米諸国ではまだやはり客船の大型化とスピード競争に明け暮れていて、氷川丸と同じ時代の英国客船クイーン・メリーは全長310m、総トン数8万1237tという巨船でした。それに比べると氷川丸は全長163m、総トン数1万1622tと、データ的には平凡な船です。
ただ、氷川丸は当時国内外の寄港先で歓迎され、乗客たちにも愛されていたようです。ロックフェラーやチャップリンはじめ、著名人が利用した船としても知られています。人気の秘密は、高い安全性と天候に強い信頼性に加え、アール・デコ様式の美しいインテリアと「帝国ホテルに引けを取らない」と言われた料理とサービスが高く評価されたためのようです。
引退は約30年という船齢に加えて、航空機時代の幕開けも背景にありました。
その航空業界は、今ではLCC(Low-Cost Carrier)が話題で、物理的な移動と関係のないサービスは削ぎ落とされ、価格競争の時代に入っています。LCCではなくとも、先日は日本航空の国際線ファーストクラスで「吉野家」の牛丼を提供するというニュースも入って来ました。
「吉野家」もある文化には違いなく、それを1万mの上空で提供することも技術でしょう。しかし旅客機のサービスのスタンダード、TPOの感覚が変化してきていることを象徴する話題とも言えます。
では春のある日、時間があれば山下公園に出かけてみましょう。花の咲く広々とした舗道を歩き、そこの足もとに埋まっている歴史と、そこに繋がれている歴史とに触れて、海を眺め、空を見上げてみるとします。チャイナ・タウンでおいしいものを食べた腹をさすりながら、上空を時速800㎞で飛ぶ飛行機に詰め込まれた人たちのことを想像してみると、どんな気持ちが起こるでしょう。
※このコラムはメールマガジンで公開したものです。