縄文土器には、見事な縄文模様が施されている。しかし、発掘された縄文土器からわかることはそれだけではない。当時のさまざまな情報が土器に残されているのだ。そして、縄文土器の解析から、縄文時代の後・晩期の九州でダイズが栽培されていたことがわかってきた。
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縄文時代に日本人のルーツを見る
筆者はもともと縄文時代には強い関心を持っていた。日本人のアイデンティティの基盤が確立された時代と考えているためである。東日本大震災では被害の大きさに愕然としたが、改めて日本人について考える機会にもなった。そこで2011年9月、東北支援に向かった足で、以前から行きたいと思っていた青森の三内丸山遺跡を訪問した。
この遺跡には、縄文時代中期を中心に1500年もの間、居住者100名を超える集落が存在した。用途に応じた土地区画が行われ、数多くの建物群が整然と配置されていた。従来のプリミティブな縄文時代のイメージを根底から覆したのである。2000年に国の特別史跡に指定されている。復元された大型掘立柱建物(写真)の大きさは感動的で、実際の柱跡を隣の白いドーム内で観ることができる。ただし、現状の復元は中途半端で不満である。屋根がなかったわけはないだろう。
発掘で得られた膨大な出土品を通して、当時の様子がわかってきた。黒曜石などさまざまな資材が遠方から輸入されていた。また、クリを積極的に栽培していたことが明らかになっている。出土したクリのDNAパターンが揃っているため、よいクリを選んで植林していたらしい※1。縄文時代の集落では、一般に住居の周辺にクリやウルシ、水辺ではトチノキの林を管理していたという。これは人の手が入った二次的自然であり、現代の里山に通じるのではないだろうか。
ヘソでわかった縄文ダイズ栽培
さて、縄文時代全体を眺めると、各種の栽培作物が発見されている。縄文時代早期(10000~6000年前)にはヒョウタン、アズキ、アサ等があり、時代が下るとエゴマ、ウリ等が加わる。これらは日本に自生しないため、栽培されていたと考えるのが自然である。遺物として残りにくい南方系のイモ類がヒョウタンと一緒に伝わっていたとする説もある。
後・晩期(4000~2300年前)ではイネ、オオムギ、ソバ等が知られている。イネは陸稲の熱帯ジャポニカ種で、オオムギ等とのセットで焼畑栽培が行われたとされている。九州地方の島原や熊本出土の土器圧痕から、栽培ダイズも含まれると考えられるようになってきた※2。栽培されていたと考える根拠としては、(1)野生種ツルマメに比べサイズが大きい、(2)高い頻度で発見される、ということが挙げられる。
多く見つかっているのは、ダイズの豆そのものではなく“ヘソ”の部分である。「ワクド石タイプ」と呼ばれる圧痕があり、これは不明種子とされてきた。しかし、形状からダイズのヘソと同定できたことが、「縄文ダイズ九州栽培説」につながった。栽培ダイズの由来は、イネ等とセットになって大陸から伝わったと推定している。それ以前に野生種の利用形跡がほとんどないため、地元原産野生種の栽培化の可能性は低いとしている。
縄文生活を見直す拠点へ
三内丸山遺跡を含む「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」は、世界遺産登録を目指している。すでにユネスコの視察を終え、暫定一覧表に掲載されている。これら遺跡群は、いずれ世界遺産に登録されるだろう。その時は社会に向けて、改めて縄文時代遺跡と縄文式のライフスタイルの重要性をアピールしてほしい。自然との共存、コミュニティのありかた等、縄文人の生活は日本の将来を考える参考になるに違いない。
※1:佐藤洋一「縄文農耕の世界」(2000、PHP新書)
※2:小畑弘己等: 植生史研究, 15, No.2, 97(2007)
http://www.hisbot.jp/zassi/15-2/15-2_p97-114_obata.pdf