大豆は古くから日本で親しまれ、大切にされてきた。世界的に生産・利用されるようになったのは意外と新しいことだ。
醤油造りのプロが書いた大豆の本。大豆は豆として調理されるだけでなく、さまざまな加工品となることで人類に栄養を供給し、豊かな食文化も花開かせてくれている大いなる豆。そんな大豆はどこから来たどんな豆なのか、そしてどんな可能性を持っているのか。大豆と半世紀付き合って来た技術士が大豆愛とともに徹底解説します。
弥生時代には栽培始まっていた可能性
日本では昔から、大豆と米・麦・粟・稗を五穀として重視して来た。「五穀豊穣」という言葉があるように、五穀が豊かに実ることが国の基盤だったのである。それゆえ、お節料理の黒豆や、節分、豆名月(陰暦9月十三夜の月。その行事。枝豆を供えた。栗名月。陰暦8月十五夜は芋名月)といったように、大豆が日本の伝統行事にとり入れられている。
ダイズの原産地は中国東北部で、栽培化は4000年前に遡るという考え方がある。原種は東アジアに広く自生しているツルマメである。
国内では、古事記や日本書紀に大豆の記載があるが、伝わった時期はもっと古い。弥生時代には、畑作物として栽培されていた可能性が高いと考えられている。延喜式(律令制下の法令の一つ)に租税として大豆や関連食品が記されているため、1000年頃の平安時代には西日本に普及していたことがわかる。全国的に栽培されるようになったのは、800年前頃の鎌倉時代以降のことである。
平安時代には、中国からゆばや豆腐が伝わっている。この時代に、納豆が国内で発明されたようである。みそはやや遅れて中国から伝わったが、普及したのは500年前頃の室町時代になってからのことである。しょうゆの普及はもう少し下って、400年前頃の江戸時代初期になる。
20世紀に世界的に生産が拡大
ダイズが世界に広まったのは、かなり新しいことだ。ヨーロッパには18世紀、米国には19世紀になってから伝わっている。それでも、永続的な栽培が行われることはなかったようだ。1873年、ウィーン万博に明治政府が初参加し、このとき大豆を出品している。これが一つの契機になり、食品利用への関心が高まったとされる。
人類のダイズ利用史は3段階に分けられるとされている。1908年までは、ダイズの生産と消費は満州を中心に東アジアに限られていた。ここまでが、第1段階である。
1909年から1939年が商品としての国際化が起きた第2段階である。満州からヨーロッパに向けて大豆や大豆油が大量に輸出された時期に当たる。
そして1940年から現在までが第3段階である。米国でダイズ生産が急速に拡大し、南米のブラジルとアルゼンチンが追随している。
現在、世界のダイズ生産22,227万t(2009年)に占める各国のシェアは、アメリカ41%、ブラジル26%、アルゼンチン14%と続き、日本は0.1%でしかない。日本で消費されるダイズは、約400万t(2008年)である。その内、国内産はわずか5%だけで、大部分は輸入に頼っている。1973年とかなり昔の話だが、不作によるアメリカの禁輸措置の際は日本中で大騒動になった。
大いなる豆
大豆という書き方は、大きいから大豆というわけではなさそうである。日本人の食生活には欠くことのできない食材である。そのまま食べるだけではなく、豆腐やみそなど多様に加工されて食卓に上っている。栄養面でも、重要な役割を果たしている。それゆえ、「大いなる豆」「偉大な豆」ということで、「大豆」と名づけられたという説がある。納得できる話ではないか。
今後、ダイズとその加工食品に関する話題を書いていくつもりである。日本人にとって、身近な食材・食品である。それでも、改めて「ヘェー」と感じていただければ、うれしく思う。