ファミリーレストランは、米国のコーヒーショップ業態を参考に考案された日本独自の業態。その最初とされるのが、1970年オープンの「すかいらーく」国立店(東京・国立)。以後、いろいろな企業が全国各地に同様の業態をオープンして行った。
その後多店化に成功した中で二番手とされるのが「ロイヤルホスト」で、1号店は1971年オープンの黒崎店)(福岡・黒崎)。この店名は当初焼肉店だったと聞くが、ファミリーレストランとして多店化した。
次いで、本家米国のコーヒーショップ「デニーズ」が、イトーヨーカ堂がライセンス契約をして上陸。1号店は1972年オープンの上大岡店(横浜・上大岡)だった。営業的には家族が休日に押し寄せるファミリーレストランとして業態に磨きがかけられて、日本に定着。後には米国本社を買い取ってしまった。
「郊外にたくさんレストランが出来て、どこも繁盛している」とテレビなどでも話題になり始めたのは70年代の後半。78年に「すかいらーく」が100号店杉並宮前店(東京・杉並)をオープンしたころだ。
80年代に入ると、どのチェーンも強気の多店化戦略を掲げて、一気呵成に出店が増えた。この前後は、近年のIT産業ブームのように、外食産業は、もうかり、夢のある新しい産業として学生からも注目されていた。それで1980年、外食産業各社の大量採用が話題になった。昭和で言えば55年。だから、80年採用の人たちを「55年組」と言う。今は50代前半の人たちで、外食産業の中での“団塊の世代”だ。
当時は“出せば当たる”と言われるほど、全国に超繁盛店が登場した。ファミリーレストラン・チェーンは、どこもこの世の春を謳歌していた。
往事を知る「ロイヤルホスト」の人が懐かしそうに言っていた話。あのころ、お客が押しかけ押しかけ、さばき切れずに店の前に長蛇の列をなすのは当たり前。お客が帰った後、食器を下げてテーブルをセッティングしても、次から次へ新規客が着席する。あおられてたまらず悲鳴を上げそうになりながら、それを繰り返した。“うれしい悲鳴”とはまさにあのことであったと。
そんな1980年、全国の店長が集まる会議の夜のこと。彼らは多いに飲み、食い、歌い、今の成功と明るい未来を祝った。その夜、最もウケた歌は、同年オリコン10週連続1位を記録した「ダンシング・オールナイト」(もんた&ブラザーズ)の替え歌「バッシング・オールナイト」(「バッシング」は使い終わった食器を下げること)で、たいへんな盛り上がり方だったという。
ファミリーレストランは20世紀日本の大発明だった。いま不調な店が増えているというのは寂しい話。次の発明をどうしたものか。
※このコラムは個人ブログで公開していたものです。