大学時代、イタリア料理店でアルバイトをしていた頃のこと。一緒に働いていた友人から、店主には好かれるべしと説かれた。それはそうだ。彼によれば、それをかなえる極意は、元気でかわいげがあること。ふむ。で、教えてくれた具体的な行動の一つに、「まかないはたっぷり、うまそうに、もりもり食べる」というのがあった。
確かに、20代の後輩とかが「大盛り!」と注文して、勢いよく食べているのを見ていると気分がいいもの。大食いは元気さをダイレクトに表現し、幸福を予感させる。強い力士に大盤振る舞いをしてニコニコしている谷町というのは、この種の楽しみから逃れられなくなったのだろう。
何度か書いている、茨城県牛久市の高松求さんは、お嫁さんの選び方として、「よく食べること」をかなり重要なこととして挙げている。それは健康なことであるし、よく食べる母親を見て育った子供は、やはりよく食べる。こういう人は病気になっても回復が早いという。逆も真なりとのことで、食の細さは周囲に不安感を与える。
大食い競争は、テレビや商店街の代表的なつまらない企画だけれど、発想が貧困な割には人気があるらしく、いつまで経ってもなくならない。飢餓問題、環境問題が重視される昨今でも相変わらずで、発案者の無神経さには辟易とさせられる。
しかしこれ、人間の根源的な思考と関係がある。
北米のインディアンなどの間に、ポトラッチという習俗がある。敵対、競争の関係のある同士が互いに相手を招待し、贈り物をし合う。より多くの価値を提供した方が勝ちとなり、いかにすごいものを贈るかを競い合う。手間のかかる工芸品、毛皮、いろいろなものを大量に贈り合う。エスカレートしてくると、貴重な財産を相手の目の前で壊して見せることに競技内容がシフトしてくる。しまいには、何人もの奴隷を殺して見せたり、村を焼いてしまったり……。
ポトラッチについては、岡本太郎に「ポトラッチの経済学/贈り物」というエッセーがあるらしい。これはまだ読んでいない。大学の文化人類学の講義で、鍵谷明子さん(鍵谷先生は理不尽な裁定で私に単位をくれなかったので、私はもう1年別な先生の文化人類学の講義を受けた。あの時は腹が立ってしようがなかったけれど、今となってはありがたいこと)がポトラッチの本質を非常によくとらえていると絶賛していたのが、かんべむさしの「ポトラッチ戦史」。この小説では、古今東西の戦争全般をポトラッチととらえていて、アメリカ独立ポトラッチ、日清・日露ポトラッチ、第一次世界ポトラッチなどが出てくる。そして第二次世界ポトラッチを経て……、この辺にしておこう。いずれにせよ、戦いの本質は浪費の見せつけあいこというわけだ。
というわけで、大食い競争は主催者の浪費力を誇示する企画と見ることができる。イソップのカエルが腹を膨らませているのを見るような感じで、ちょっと不敵で、ちょっとかわいらしく、大いに哀しい。
インド、ビルマ(今のミャンマー)などのアジアの地域には、ポトラッチに似た勲功祭宴という習俗がある。権力をつかみ、維持しようとする者による盛大なパーティで、豪華であればあるほど、主催者(飲食の提供者)の地位は高まる。そのことから考えて、大量の食事を用意して見せるという企画は、不人気に行き詰まったテレビ局、制作会社、商店会の断末魔と見ればいいのかも知れない。
イギリス帝国時代のイギリス人は、インド人やビルマ人に大食いぶりを見せつけて、支配力を強化したとは、ジョージ・オーウェルが書いていたことだったか、オーウェルの解説をした高校の先生が語っていたことだったか。彼らの朝、昼、晩の食事の量が、当時のインド人、ビルマ人の食事に比べて何倍も多い。その上、アフタヌーンティーと称して、また大量にものを食う。インド人やビルマ人は、白人たちの大食いに底知れぬ不気味さを感じ、怖れたのだとか。
破壊的な大食いは、元気さを表すのを通り越して、不気味でマジカルな強さ、悪魔的な力を表す。牛を丸呑みにする山姥、釜にいっぱいの飯を炊いて握り飯を作り、頭の後ろにある口でたいらげてしまう二口女、何でも食ってしまう鬼、8つの酒樽を干す八岐大蛇……。大食いは化け物の専売特許なのだ。
慎みましょう。
※このコラムは個人ブログで公開していたものです。