毎月12日は「パンの日」なのだそうだ。1983(昭和58)年に、パン食普及協会が決めたという。伊豆国韮山代官の第36代江川太郎左衛門(英龍、号坦庵)が、長崎オランダ屋敷の料理方だった人を呼んでパンを焼かせたのが1842(天保13)年4月12日だったからとのこと。
その時のパンを復刻したものを入手した。このパン、見た目こそなじみのある色形だが、触ってみるとフカフカのコッペパンとはかなり違う。石ほど硬く、文字通り歯が立たない。コッペパンを電子レンジにかけ過ぎて硬化させてしまったもののようで、軽く、つぶれず、欠けず、風呂で垢すりに使えそうな感じだ。
兵糧として携行性と保存性を重視して調製したもので、いわばパンというよりも乾パンだが、今日の乾パンのようにもろくはない。ふやかして食べたらしい。うちでは砕いてグラタンにしてみようかと思う。砕くことができたらの話だが。
江川家は約1000年続く清和源氏の名家で、徳川政権になってから代々の当主が伊豆国韮山代官を務めた。その支配地域は、北は現在の埼玉県、西は同山梨県にまで及び、私が住む多摩も含まれる。ありがたいことだ。
どうも幕末まで代官を世襲で務めたのは江川家だけらしく、相当に幕府の信任が厚かったらしい。黒船が来るや東京湾にお台場(人工島の砲台)を築き(お台場に通う人たちは、伊豆地方に足を向けて寝てはいけない)、これらに配置する大砲を作るため地元に反射炉を作った。そして新時代の兵糧として、パンを焼いてみた。そのように、最後の最後まで幕府に付き合った。国を守る一心だったのだろう。
こういったリーダーシップを代々受け継いでいる家の御当主は、きっとどこか有名な会社の社長様ではと思って尋ねたら、先代がそうで、現当主の方は、都内でお医者様をしているという。なるほど。
戦後、米国の穀物戦略の中で日本に定着したパンと、英龍のパン、意味の違いに興味は尽きない。
※このコラムは個人ブログで公開していたものです。