パエリアは、本場スペイン・バレンシア地方では、休日に父親が作る。普通、屋外の火で作り、父親が家族に取り分ける。
休日に父親が屋外で作る(仕切る)料理と言えばバーベキュー、つまり鍋を使わない肉料理だ。レヴィ・ストロースの「神話論理」によれば、それは鍋を使う料理の対極にある(右表。「神話論理」は長年みすず書房が翻訳を発行すべく取り組んでいるが、かれこれ20年以上実現していない。原著を知る人によれば、フランス語ならではの修辞、譬えなどが多く、日本語への翻訳は不可能、あるいは無意味なのだとも。表はその人の講義の記憶から書き出したもの)。
なぜ、スペインの男たちは、直火の肉料理の代わりに、鍋を使ったコメ料理を作るのか?
スペインの友人にパエリアを作ってもらって謎が解けた。パエリアの原型は、バーベキューなのに違いない。少なくとも、あれを「煮て作る料理」と考えるのは誤りと見える。
休日の公園で、スペインの友達がチキンとポークのパエリアを作ってくれた。
最初にすることは、パエリア鍋を火に掛けて、多めのオリーブオイルを温めること。これに手羽先とスペアリブを入れて加熱する。
コンフィのように油で煮るのに近い印象を受けるけれども、それよりも油はずっと少なく、温度は高い。ジュージューと焼く。
塩はたくさん使う。焼きながら、どんどん振りかける。見ている人間が心配しているのを感じ取って、何度も「大丈夫だから」と笑いながら、さらに振る。どんどん振る。それほど振る。曰く、肉と骨の中のうまみを塩でしみ出させるため。塩をケチるとうまみが出ず、間抜けな味にしかならない。
肉がカラカラになった辺りでこれらをいったん鍋から取り除く。鍋に油が残るように、油をよく切って肉を引き上げる。
次に、鍋に残った油で野菜を炒める。パプリカや菜豆など。肉から出たうまみが、野菜にしみ込む。
ここでいったん火を止める。これに、どけておいた肉を戻し、鍋の中に肉と野菜をバランスよく並べる。生ゴメを材料の上から均等に用心深く振りかけ、サフランを水に浸しておいたものと水を加える(今日的には、サフランとターメリックか何かと粉末ブイヨンなどでできたミックスが売られていて、それをよく使う。コショウなどのスパイスは使わなかった)。
再び火に掛け、コメが柔らかく炊き上がれば出来上がり。
こう見ると、肉と野菜でバーベキュー(最近の日本でならば、ジンギスカンや鍬焼きのようなやり方で、肉の味を野菜に吸わせて食べる方法がある)をやり、残った汁を使ってリゾットを作った、と見ることができる。いったん火を止めるまでがバーベキュー、その後が仕上げのご飯というわけだ。
「カジヤの火」を使った野生の料理に、鍋という文明が乱入し、ハイブリッドな料理となっているのだろう。バーベキューとして料理を開始するために父親が調理の主導権を握る。途中、焼いた物ものから「煮たもの」へとシフトするが、行きがかり上最後まで父親が調理を担当し、分配も父親がする。
ついでに言うと、日本の鍋料理も、文字通り鍋で「煮たもの」でありながら、多くの家庭で「鍋奉行」を父親が演じ、ハレの料理「焼いたもの」の気配をまとうという倒錯がある。
家庭の日常の食事で食物の分配を行う役割は、当主の妻が握る侵すべからざる特権であった。それをハレの日に当主が演じる。もと、それはやはり直火で「焼いたもの」について行われていたのだろう。
それが、近年父親たちは料理店で鍋料理を知り、家屋の中とは言え台所に常設された「カマドの火」ではない火で行う料理、すなわち「カジヤの火」で男が行うハレの料理の一つとして、家庭に定着したのだろう。
鍋料理の鍋が、通常の料理でも使う金属の鍋とは材質も形も違う土鍋であるのも、当主が取り仕切るハレの料理であるということと、実は無縁ではないだろう。どうもあれは、煮ているのではなく、汁ごと焼いているのであるらしい(あれで作るうどんは「鍋焼きうどん」と言う)。
パエリアの鍋も、日常の煮物料理のための鍋とは違う。どう見ても、鉄板焼きのための鉄板に把手が付いただけの形をしている。
※このコラムは個人ブログで公開していたものです。