「キルト」と言えばスコットランド人の民族衣装。おじさんたちがスカートのようなキルトをはき、肩からタータンを羽織る。そして列を組んでバグパイプを吹きながら練り歩く――映画やテレビでよく見掛ける、スコットランドの伝統を伝える光景だ。ところが意外にも、「これらの民族衣装と楽器の歴史は、それほど古いわけではない」(アンソニー・ギデンズ「暴走する世界」)。
「創られた伝統」(エリック・ボブズボウム、テレンス・レンジャー)を参考に、アンソニー・ギデンズは「ねつ造された伝統」と言う。「短いキルトは、ランカシャー州(イングランド北西部の州)の産業資本家トーマス・ローリンソンが、十八世紀初頭に考案したものである」(「暴走する世界」)。スコットランド高地人の民族衣装を労働者向けにデザインし直し、彼らをイングランドの工場に連れて来ること、それが目的であった。「要するに、キルトの生みの親は産業革命なのである」(同)
他にもある。彼によれば、1860年まではインド兵も西洋風の軍服を着ていた。ところがその後、インド兵をインド兵らしく見せるために、ターバン、サッシュ、チュニック(インド風の上着)などを生かしたインド兵用軍服を作ったのだと言う。
ことほど左様に、「伝統」なるものは、高々この2世紀のうちに作られたものと、アンソニー・ギデンズは指摘する。
「伝統」(tradition)という言葉自体、その程度の歴史しか持たない新しい言葉だと言う。中世に、今日と同じ意味で使われる「伝統」という言葉はなかった。「近代」になったことで、「伝統」という言葉が生まれた。「伝統的」という言葉は、「近代的」という言葉なくして成立しない相対概念なのだ。
さて、この時期、寒い外から帰って来て家族と鍋をつつきながらちょっと考える。鍋料理というのは、僕らにとってまさに「伝統的な」料理の一つだ。でも、僕らが知っている鍋料理はどの程度歴史のある食べ方なのか?
今日の鍋の主役たる白菜は、実は相当に近代的な食品だ。この野菜が交配されたのは後期の清でのことで、日本に本格的に入って来たのは日露戦争の後。だから、白菜の入った鍋料理というのは、どう古く見積もってもカレーライス程度の歴史にしかならない。
一方、昔の民家建築では、食事をする部屋に土鍋を据える場所などない。囲炉裏の上には自在鉤で鉄鍋を吊るしていた。ある料理のために、わざわざそれを撤去して五徳に土鍋を据える理由というのは考えづらい。また、当時料理を取り分けるのは現役の当主の妻の仕事で、皆で鍋をつついたりはしない。
さらに、戦前までは都市でも家族全員が同じ食卓を囲むというのは希だった。家長と長男が食べる場所と、次男以下「女子供」が食べる場所は違ったのだ。同じ卓で「一家団欒」というのは、戦後に発明され普及したスタイルだ。
してみると、家庭でする鍋料理は「伝統的」かも知れないが、全く歴史的ではない。
などと僕が勝手に考えていることとは全く関係なく、巷では食についての“伝統”志向が強まっている。
最近よく使われる「スローフード」という言葉。その運動も「食に関する伝統技術と知識」の保護の目的を含んでいる。この言葉を使って、スパゲティやスパゲティソースやオリーブオイルなどの販売促進にこれ努めているのが近代的な食品工業なので、えも言われない諧謔があるのだが、もちろん「スローフード」を唱える人々で、自分は近代的な食品工業とは無関係だと主張する人々もいるだろう。そのことの真偽や善し悪しはここでは問わない。
ただ、その言葉の普及は、大切な家庭の食卓までもが、遂に「ファストフード」なしには語れない相対概念に没落させられることを意味する。僕たちは、そのような世界に住んでいるわけだ。
僕が冬に鍋料理をするのは、おいしくて楽しくて温まるから。ファストフードとは何のかかわりもない。
※このコラムは個人ブログで公開していたものです。