シルバニアファミリーという玩具のシリーズがある。ウサギ、ネコ、キツネ、ネズミ、リス、イヌ、クマ、それぞれの家族の人形たちと家具のおもちゃで遊ぶ、かわいらしいシリーズだ。玩具のエポック社が1985年に発売し、いまでも人気がある。東京・吉祥寺には、そのシルバニアファミリーのテーマレストラン、「シルバニア森のキッチン」がある。
1999年に開店。そのオープニングで、同社の社長がある記者のインタビューに答えた。その中で、このレストランのコンセプトワークの中で苦労したこととして、お客である子供たちが料理に動物の肉が入っていると気づいてショックを受けないように工夫した、そういった意味のことを語ったという。
本当のキツネやクマはウサギやネズミやリスを食べるだろう。ネコも、ネズミぐらいは襲う(最近はネズミを見て逃げるネコもいるらしいが)。イヌはウサギ狩りに駆り出されることもある。事実とは言え凄惨なそのことは、平和なシルバニアの森のコンセプトには合わないということなのだろう。
シルバニアファミリーは動物をかたどったものであって、動物そのものではない。フィクションだ。かわいい子供たちの平和な人形遊びの世界を大事にしたい、苦労して作り上げた商品の世界を、殺伐とした現実の世界から守りたい、その気持ちはよくわかる。
しかし、人間の食事というリアルの世界にフィクションの世界が立ち入って来るとき、僕らは混乱せざるを得ない。――では、そこで子供たちが口の中に入れているものは、何なのだろうか?
僕らは日々、生き物を食べて生きている。鉱物を食べるバクテリアなど一部を除き、すべての生き物は他の生き物の体か、それに由来するものを食べて生きている。
僕らは生き物として、そのことを忘れてはいけないと思う。
肉片を見ては、その動物が生き生きと動き回っていた様を思い浮かべ、野菜・果物を見ては、その植物が太陽の下で風にゆられながら生長していた様を思い浮かべたい。
「トルコ料理――東西交差路の食風景」(柴田書店)という本の中で、編集者とカメラマンは、トルコ南東部のある村を訪ねる。すると村人が、飼っている山羊を引っ張り出して来た。ごちそうするという。二人は恐縮するが、村人は屈託なく是非と誘う。そして、生きている山羊の喉にナイフを当てて一気に引いて頭を落とし、やぐらに後肢から吊るし、手際よく皮を剥ぎ、腹にナイフを入れて内臓をバケツに落とし、肉を切り取っていく。
その様をカメラマンは刻々と撮り続け、編集者はその顛末のすべてがわかるように、数ページの中に写真を並べた。おいしそうな食べ物の写真が主体の本の中で、最初、それはやや衝撃的な血なまぐさい写真にも見えるのだが、その場面を避けて村人たちの食文化を語ることは不可能だというのが、彼ら二人の考えだったのだろう。
山羊の解体が始まると村の子供たちが集まってきて、久しぶりのイベントを目を輝かせて見守っていたという。その子たちの表情は本には載っていない。けれども、僕にはそれを思い浮かべることができる。僕が子供の頃は、暮れに父が鮭を捌く様を、彼らと同じ目で見守っていた。
また、ある退屈な日の夕方には、母が悲鳴を上げながら台所から居間へ走って来た。「どうしたの?」と聞くと、捌いていたイカと目が合ったという。よほどぞっとしたらしい。しかし、気を取り直すとすぐに台所へ戻って行き、夕食の食卓にはイカ刺しが並んだ。
相手の死を観察する。相手の死を味わう。生き物を食べるというのは、そういうことなのではないだろうか。
食べ物の死を想う。
それなしに食べてはいけないのではないだろうか。「いただきます」とは命をいただくことだと僧は言う。生と死の交換で、僕らは生きている。それを日々に淡々と自覚していることは、食う者の、食われる者に対する責任のようにも思う。
善良な父母が子供に「食べ物を大事にしなさい」と教えるそのことも、意味はそこにあると思う。平和で、温かく、環境を浪費しない生活も、生と死の交換の自覚あってのことではないだろうか。
小さくカットし、筋を除き、そのものとは関係のない味を付け、あるいは衣を付け、柔らかく調理し、かつて生きていた生物であったことを隠蔽された肉片たち――そういうものは特定の店だけにではなく、巷のレストランやスーパーマーケットなどにあふれている。
死のポルノグラフィー化。食品にもそれが及んでいる。
店頭の彼らの死体のために、少しは余計に祈ることにしよう。
※このコラムは個人ブログで公開していたものです。