さてさて、温厚な松永さんを怒りで震えさせてしまったというのは、ただごとではない。だが、誤りの指摘や反論ならありがたいのだが、「違和感」という感情、「怒り」という情動だけ報告され、その原因に言及されないというのは、私としては困惑するばかりで、生産的でない。それを残念に思う。とはいえ、このことはコシヒカリ新潟BLを「コシヒカリ」として売るべきではなかったということを考える上で、よいヒントとなっている。
安部公房の「ヘビについて」という稿を読んだのは、確か高校の国語の教科書か副教材でだった。曰く、人はヘビを嫌う。(1)それは恐らく足がないから、相手が常ならぬものと映り、それでどんなものか想像がつかず、得体の知れぬもの、薄気味悪いものと感ぜられるため。(2)しかし、ヘビのことをよく調べて理解すれば、恐れる必要はない――そんな文章だったと記憶する。
さしずめ、松永さんにとって私の文章はヘビなのであって、あまりの不快感のため(1)に留まってしまうのだと拝察する。だが、松永さんが普段得意とすることは、(2)の方だ。対象の情報を集め、筋道立てて理解すれば薄気味悪く思う必要はない。私も(2)のように物事を理解するプロセスが好きだ。知らなかったことを知って、そのことで世界の見え方が変わるというのは、人生の大きな楽しみの一つだと思う。
だがさらに、(1)の、人が何かを薄気味悪く思うメカニズムにも(そしてもちろん、何かを好ましく思うメカニズムにも)非常に興味がある。
このたびは、コシヒカリ新潟BLというヘビについて、松永さんはいつものようにヘビの(2)の考察をしている。私は(2)は当局と松永さんにお任せして、(1)の考察を続けたい。
乱暴に思われるかもしれないが、この問題の場合、在来コシヒカリとコシヒカリ新潟BLが違う品種でありながら、形質としてはほとんど同じであるということ、あるいは「ほとんど同じということは、やっぱり違うんだろう」などと反論するということは、食べる人にとってはあまり重要な問題ではない。
また、米穀店有志が集まって、在来コシヒカリとコシヒカリ新潟BLの食べ比べを行い、「やっぱりコシBLは劣る」「いや劣らない」とかと議論されていることも多いようだが、これもあまり重要なことではない。こういうことを書いて、またどなたかからお叱りを受けるのかもしれないが、9対1など決定的な結果が出ない限り、時間と資源を他に振り向けた方がいいはずだ。
なぜかと言えば、「コシヒカリ」という銘柄を頼りにコメを買っている消費者は、普通、味覚でものを選んでいないからだ。現実に、産地、生産者、圃場によって味が違う「コシヒカリ」が、だいたいどの店でも同じように売れているということから、そのことは容易に想像が付く(つまり仮説だが)。
袋に「コシヒカリ」と書かれたコメが売れ始めたプロセスが、他の商品のブランド形成の場合と同様のプロセスであったとすれば、最初は将来の売れ筋を他の人に先んじて選び始める少数の“目利き”タイプの消費者が買い、「彼らに従っていれば間違いない」というものの選び方をする一般の人が買うようになって、売れ筋として頭角を現したはずだ。
「目利き」の研究は、Webや書店で明治学院大学の清水聰教授の文献を当たられたい。また、「ティッピング・ポイント」(マルコム・グラッドウェル著、飛鳥新社)は、この辺りのプロセスを記した読み物として面白い。他に、食品メーカーやアパレルメーカーが、目利き的な消費者と彼らに追随するタイプの消費者の比率を明らかにするような調査をしているはずだが、今手もとにデータの持ち合わせがない。
追随するタイプの消費者は、多少の味の変化などでは買い物の方針を変えない。変えるとすれば、尊敬するご近所の“目利き”が別のものを買い始めるか、今まで買っていたものに危険を感じたときだ。
この危険がくせ者だ。多くの消費者は「危険」と判断するために、科学的な証拠を必要としない。「危険かもしれない」という何らかの情報は、即「危険」と同じになる。GM作物や最近の中国産の食品の扱われ方を見れば、このことに特段の説明は必要ないだろう。今年の菓子メーカーなどの不祥事でも、明確な危険が証明されることとは全く関係なく、「隠している」「ウソをついている」とみなされただけで、消費者は「嫌悪」「怒り」という情動を示し、離れた。
これも、本当に「隠している」「ウソだ」と証明される必要はない。消費者が何かを忌避するには、「かもしれない」レベルで十分なのだ。
その点、コシヒカリ新潟BLを在来コシヒカリと同じく「コシヒカリ」の名で売ることは、「隠しているかもしれない」「ウソをついているかもしれない」と思わせる隙を作る、非常に危うい戦略だというのが私の考えだ。
消費者がこのことについて真っ先に触れる情報は、「同じ名前で売っていたけれど、違うものらしい」ということであって、「Webで調べたら、味は同じだと書いていた」という情報に触れるのは、たいていの場合後になる。
問題は、人の精神作用の「知」(知識、知能)、「意」(意志、意図)は、「情」(感情、情動)に左右されるということだ。いったん嫌悪や怒りを感じたものについて、よく「知」ろうと「意」図することを、普通の消費者に求めるのはほとんど不可能と言っていい。そこにすがりついて、一生懸命論理立てて説明しようとすれば、さらに怪しさを感じさせるばかりだ。友達にウソつき呼ばわりされて、誤解を解こうと弁明してもなかなか分かってもらえなかったことというのは、誰しも経験があることではないだろうか。
このような、人間の常識的な心の作用を考えてみずに「コシヒカリ」の名にこだわった関係者の判断は、全く幼稚だったと言わざるを得ない。
ササニシキBL=「ささろまん」が売れなかった轍を踏みたくないという気持ちもあったのだろうが、最初から違う名前で、しかも評判を勝ち取る手はいくらでもあったはずだ。品種名「コシヒカリ新潟○号」と違うブランドで売る知恵があるのなら、例えば素直に「越後のこしひかり」でもいいし、「コシヒカリ新潟BL」だって決して悪い名前とは思えない。ふた昔前のオジサン感覚でも、「コシヒカリ・ネオ」、み昔前なら、「スーパー・コシヒカリ」など考えられたはずだ。今風であれば、「コシヒカリ2.0」か(これは悪のり)。
そんな名前に、「知恵を結集して、ついに病気に強いコシヒカリの開発に成功しました!」という勝利感を打ち出したり、表示上の問題は考えなければならないが「農薬減って農家もニコニコ」「しかも味はそのまま」「作りやすくなったので、味に手間をかけてます」とう趣旨のストーリーをくみ取らせる戦略はあり得たはずだ。
何と言ったらいいのか、いちばん浮かばれないのは、長い、人生の中の貴重な時間をかけて育種に当たった研究者たちである気がする。痛ましい。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。