クリスマスケーキの甘みを増したのは科学だが

イチゴショートとシュトーレン。20年後、30年後のクリスマスの食卓に並ぶ食べ物は、子供たちにどんな感動をもたらすだろうか
イチゴショートとシュトーレン。20年後、30年後のクリスマスの食卓に並ぶ食べ物は、子供たちにどんな感動をもたらすだろうか

イチゴショートとシュトレン。20年後、30年後のクリスマスの食卓に並ぶ食べ物は、子供たちにどんな感動をもたらすだろうか
イチゴショートとシュトレン。20年後、30年後のクリスマスの食卓に並ぶ食べ物は、子供たちにどんな感動をもたらすだろうか

日本でクリスマスケーキと言えば、イチゴショートにいろいろな飾りが付いたものが一般的だが、ドイツならシュトレンという質素な見た目の甘いパンのような菓子を焼くし、フランスならビッシュドノエルという、丸太状のケーキを食べるという。シュトレンはトンネルの意味らしい。一方、ビッシュドノエルは、「クリスマスの丸太」。つまり、「食べるクリスマスツリー」というわけだ。なぜ、クリスマスに木を飾ったり、木をかたどった菓子を作って食べるのか。

 こういうものの由来には諸説あるわけだが、かつて西ヨーロッパで幅を利かせていたケルト人の文化遺産に、適当なキリスト教的解釈が付けられて続いてきたと見て間違いないだろう。ローマの支配を受けてキリスト教が伝わる以前のケルト人たちは、ドルイドという祭司のもと、自然崇拝的な信仰を持っていた。彼らの信仰は、特に樹木に対する畏敬の念と儀式に特徴がある。

 夏以降、どんどん日が短くなり、「このままでは太陽が死ぬ」と思う頃、冬至を境に再び太陽が命を取り戻す、つまり日が長くなる。その冬至の前後にドルイド達が行っていた祭りと、キリスト教文化が融合して、クリスマスという形になったのだろう。

 ドルイドの祭りだから、当然樹木が重要な役割を持っている。かつては、彼らの儀式ではご神木に生け贄も捧げた。木に人間を吊るすなどしたというから、今日われわれも飾るクリスマスツリーにぶら下がっている人形というのは、実は相当に重みのあるシンボルと考えるべきなのだ。

 まあ、そんな恐ろしげな光景を想像することも、樹木に対する畏敬の念も関係なく、24日の夜、我々はただ「うまい」と言って食事をしてケーキを食べるわけだ(あるいは「安かった」と言って25日の夜に)。きれいでうまければいい日本人にとっては、もはやそれが丸太の形をしている必要はない。それでデコレーションケーキが一般的になった。

 正月には餅を食べる。餅は西日本は丸餅、東日本は切り餅ということになっているが、歴史的には儀式のときに食べる餅は丸と決まっていた。それは、餅がイナダマ(稲霊)という神霊の白くて丸い姿を表すからだ。これが、都から下って江戸あるいは東京で生産性を重視して、切り餅になった。あるいは雪国で、軒先に吊るして干すために、同じ厚みに切った。これも、日本でのクリスマスケーキ同様、宗教的な食品が合理化されて形を変えた例だ。

 ついでに言えば、コンビニエンスの必須アイテムであるおにぎりは、別名おむすびと言う。今日も西日本ではややおむすびという言葉になじみがあるようだが、全国に何万店というコンビニエンスがみな「おにぎり」として売っているから、早晩おむすびという言葉も失われてしまうだろう。

 ムスブという言葉は、離れているものをつなげて新しいものを作り出す意味。神話にはムスイノカミという神もいる。宗教的なニュアンスのある言葉だ。それに対しておにぎりというのは、ただ飯粒を圧迫している動作を言っているだけで、はなはだ即物的な言葉だ。おむすびは神前に供えるのにふさわしいが、おにぎりは戦国武者たちの兵糧に似つかわしい合理性を感じさせる。

 さて、このサイトは食品の科学がテーマのはずなのに、文化やら宗教の話を書くのはけしからぬというご指摘をいただきそうだが、その発想には一つ問題がなかろうかというのが、私の考えだ。

 クリスマスに作る菓子は、時代によって刻々と姿と作り方を変えている。だいたいが、一般家庭で砂糖をたくさん使えるようになったのは、ドイツ人の化学者がビートからの製糖を発明して以降のことだろう。そして、ヨーロッパでの料理や製菓のルーツは、化学者の祖たる錬金術師たちに求められるという。彼らの発明や研鑽が、新しい食べ物を生み出し、それが例えばクリスマスの文化、宗教的な行事を連綿と伝えることにも貢献してきた。甘さを増した菓子は、この行事をかつてより一層楽しいものにしたはずだ。

 日本では、神前に供える穀物の固まりは、かつてはシトギというものが主流だった。コメを水に浸し、すりつぶして団子にしたものだ。それが、蒸してつく方法に変わり、さらに月のウサギが持つような竪杵から、ハンマー状の横杵に変わり、食感がよくなり、生産性も一気に向上し、大規模な祭りの挙行もたやすくなった。その変遷の節目節目に、大陸由来の技術革新の導入があったという。

 科学と新しい技術は、人々の精神生活に大きく貢献してきたのだ。

 答えが1つになるべき科学と、1人ひとりの心にゆだねられる精神文化、宗教的思考や行動は、対立するものと考えられがちだ。しかし、過去を振り返れば、科学と宗教はそれぞれの研究者の中で渾然一体となっていたり(例えば、天文学者ケプラーは太陽崇拝という信仰を持っていた)、科学と宗教がセットになった状態で人々の知恵と生活の向上に貢献してきた(例えば、弘法大師は真言宗の開祖である一面、薬学や土木工学などの最先端の技術者でもあったという)。

 クリスマスから正月にかけてのこの時期、1年に1度くらいは、これからの科学にもそのような形での発展はないものかと考えることは、悪いことではないはずだ。科学と新しい工業技術が保証できるものが、人々の損得勘定だけということでは、寒い話ではないか。

イチゴショートとシュトレン。20年後、30年後のクリスマスの食卓に並ぶ食べ物は、子供たちにどんな感動をもたらすだろうか。

※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。

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About 齋藤訓之 398 Articles
Food Watch Japan編集長 さいとう・さとし 1988年中央大学卒業。柴田書店「月刊食堂」編集者、日経BP社「日経レストラン」記者、農業技術通信社取締役「農業経営者」副編集長兼出版部長等を経て独立。2010年10月株式会社香雪社を設立。公益財団法人流通経済研究所特任研究員。戸板女子短期大学食物栄養科非常勤講師。亜細亜大学経営学部ホスピタリティ・マネジメント学科非常勤講師。日本フードサービス学会、日本マーケティング学会会員。著書に「有機野菜はウソをつく」(SBクリエイティブ)、「食品業界のしくみ」「外食業界のしくみ」(ともにナツメ社)、「農業成功マニュアル―『農家になる!』夢を現実に」(翔泳社)、共著・監修に「創発する営業」(上原征彦編著ほか、丸善出版)、「創発するマーケティング」(井関利明・上原征彦著ほか、日経BPコンサルティング)、「農業をはじめたい人の本―作物別にわかる就農完全ガイド」(監修、成美堂出版)など。※amazon著者ページ →