何年か前、青果流通に携わっていた友人が、ゴボウ生産者と話し合い、洗いゴボウを出荷することにした。ただ、見た目が良くない。そこで、消費者になぜ色が良くないのかを伝え、品質が劣るわけではないことを訴えるため、パッケージに漂白に類する加工をしていない旨を表示することにした。ところが、出荷先となる大手スーパーの担当者からストップがかかった。
「『漂白していない』と表示すると、ほかのゴボウが漂白剤を使っているように誤解されて、売れなくなるから」という説明だったという。その後の話は聞いていないが、今、その担当者の売り場ではどんなゴボウが並んでいるのか、興味津々だ。
というのも、ゴボウはささがきにしたら酢水にさらすものと思っていたら、最近はさらさないのが流行になっている。皮をむいたゴボウが茶褐色になるのはクロロゲン酸というポリフェノールができるせいで、その抗酸化力を期待するため、むしろ生成は抑えず、食べてしまった方がいい、という話が広がってきている。
果たして人体にどの程度の効果・効能があるのかは知らないが、ゴボウのこうした食べ方からも、人々の嗜好が「視覚」から「意味」へとシフトしていることがうかがわれる。例の、“胃袋で食べる→舌で食べる→目で食べる→頭で食べる”という、食の嗜好の変化のことだ。
特に色は、食品の「意味」にとってかなり重要なポイントだ。色彩には、物理的な色相(カラー・アスペクト)とは別に、その色彩についての思考の様態(モード)というものがある。例えば、白という色には、世界中のどの民族に聞いてみても、だいたい「無垢」「神聖さ」「日光」「昼」などの意味が付いて回る。
だから、例えば日本では以前、白い食べ物は特別な意味を持っていた。白い丸餅、白いおむすびなどは神霊を表すものだったし、お清めの塩は真っ白な精製塩、香典返しは上白糖などなど、冠婚葬祭に欠かせないものばかりだった。
その価値観は、“真っ白=高級”として日常生活にも影響を及ぼした。私たちの祖父母の代には、白いご飯をありがたいと感じることに疑問を持つことなど、考えられなかっただろう。また、昔、農村に、工業製品である全くくるいのない正円の白く輝く茶碗が入ってきたときは、ムラのお年寄りたちは少なからず動揺したとも聞く。そういう品物は“人間業ではない=神業”の部類で、霊的な畏れを感じさせるものだったからだ。
ところが時代は下って現在、食べ物に関しては、そうした完全無欠なもの、無垢なるものを尊ぶ価値観は、廃れている。真っ白ではなく、多少不純物の色があるもの(黒糖、三温糖風の色を持つ砂糖、泥を含んだ輸入海塩、玄米や雑穀を合わせた飯、などなど)に分がある。洗いゴボウもその例に入るはずだ。
色だけでなく、形もしかり。高度成長期頃まではまん丸なビスケットが好まれたが、今はホームメイドスタイルとして、多少いびつで不揃いなものもよく開発される。正円、シンメトリーという自然界に少ない形よりも、フラクタルでできたような形の食べ物に人気がある。
これを、神々しい、稀有な、ありがたいものよりも、人間的で、身近かで、ありふれたものを、人々が求めていると見ることもできるだろう。あるいは、野性的で、不思議で魔術的な、得体の知れないものを求めているのかも知れない。
その裏には、純白、シンメトリーに類する商品が「神々しいものだと思っていたら、普通のサラリーマンが作っていた」「稀有なものだと思ったら、高校の教科書に方法が載っていた」というある種の失望(実は身近だった)と、それに対する反動が隠されているのかも知れない。
ときどき、「精製したもの(つまり真っ白なもの)を食べたり飲んだりすると体に悪い」という人に出会うが、恐らくは、そうした心情を科学に引き付けて説明しようとしているのだろう。
そんなことを考えながら眺めていると面白いのが、最近の巷のデザインの傾向だ。アパレル、携帯、自動車、そして飲食店を含む店舗、建築、インテリアなどだ。直線的あるいは人工的丸みで、シンメトリカル。原色あるいはメタリック系の色。多少のクールさを持ち、近寄りがたい雰囲気も醸す……。かつての真っ白な茶碗的な世界が再び力を付けているように見える。
食べ物と、その他のものに求められる印象、雰囲気、意味は、そのように、これからどんどん乖離していくのか? はたまたどちらかに寄ってくるのか? あるいはある時期逆転するのか……?その時売れるものを、ほんの少し先取りできればいいわけだが。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。