英国食品基準庁(FSA)は2009年7月29日、オーガニック(有機認証)食品の栄養価と健康影響についての科学的根拠を吟味したレビューを発表しました。通常農法による食品と比較して、オーガニック食品の栄養学的優位性は認められず、健康影響についても特に良い影響があるとは言えない、というのが結論でした。そして最も重要なことは、有機食品が優れていることを証明しようとして行われた数多くの研究のほとんどの質があまり高いものではなく、評価対象とできる文献の数が極めて少なかったということです。
この発表は英国を中心に英語圏のメディアで大きく取り上げられ、オーガニック推進団体を中心にオーガニック食品の方が良いと信じていた多くの一般市民を巻き込んだ論争をもたらしました。日本ではあまり大きなニュースにはなっていないようですが、英国人にとってどのようなものだったかについては、「オーガニックを否定した英政府論文に自然派が猛反発――ニュースな英語2009年8月3日(月)」というコラムが雰囲気を良く伝えているようです。
英国ではFSAの報告書をまとめた研究者宛に、読むに耐えない嫌がらせメールが多数届くという事態にまで発展しています(学術論文として発表されていますので、連絡先のメールアドレスは論文に記載されています。もちろん誹謗中傷メールを送るためのものではありません)。
それでは、この件の背景と意味について説明してみましょう。ヨーロッパにおけるオーガニック食品の認証制度は日本における有機認証制度と似たようなもので、英国では最大の推進団体がSoil Associationです。この団体がオーガニック食品についてどのような宣伝を行ってきたかをホームページで確認すると、「オーガニック農法は地球に優しく、高度の動物の福祉基準をもち、あなたの食べる食品の栄養価が高いことを保証する」というスローガンが真っ先に現れます。詳細項目として5つ、1.二酸化炭素排出量が少なく地球に優しい、2.ミネラルや必須アミノ酸やビタミンなどの栄養価が高い、3.放し飼いなど動物に優しい、4.オーガニック農場では野生動物が多い、5.遺伝子組換えを使っていない――とあります。
これを見て、有機農産物は残留農薬が少ないから安全なのだと信じている日本の多くの消費者は、残留農薬のことが入っていないことを不思議だと思われるのではないでしょうか。もちろんSoil Associationは残留農薬が少ないという宣伝もしばしばしているのですが、公式に堂々と主張することはできないのです。理由は、各種の残留農薬モニタリング検査や安全性評価などにより、一般的に販売されている食品から検出される残留農薬がヒトの健康に悪影響を与えることはない、という公式見解が何度も出されているからです。
「残留農薬の危険性」を宣伝することはすなわち科学的根拠のない宣伝であり、広告規制局(ASA)に訴えられれば違法であることが認定されて、法的制裁を受ける可能性があるのです。実際に通常農法で生産された農産物であろうとオーガニック製品であろうと、安全性に問題があれば流通できないというのが世界的に当然のことですから、通常農法で生産されたものを根拠無く危険だと主張するのは規則以前にまっとうな行為ではないでしょう。
そこでオーガニック食品の優位性を宣伝するために、栄養価が高いということを持ち出してきていたのです。その根拠とされた研究内容があまり科学的に信頼性の高いものではないということが今回のFSAの発表で証明されてしまったので反発しているわけです。
残りの主張は環境影響と動物の福祉ですが、それらについても明確で包括的な科学的根拠をもとに主張しているわけではないのです。少しだけ指摘しておくと、オーガニックチキンはケージ飼いではなく放し飼いでなければならないのですが、ニワトリは地面に落ちている小石などを食べて砂嚢にため込む習性があるため、しばしば散弾銃の弾丸などの環境中にある異物を食べて肉や卵に鉛汚染がおこることがあります。歩き回れる場所が広ければ広いほど、安全管理は大変になります。さらにニワトリには「つつき順位」という習性があり、弱いニワトリは常にほかの強いニワトリからつつかれてぼろぼろになり、時には死んでしまうこともあります。ケージはニワトリをただ閉じこめているだけではなく守っているという側面もあるのです。
Soil Associationのようなオーガニック推進団体はそういった自分たちの主張にとって都合の悪い情報には眼をつぶって、「自由に動き回れる幸せで健康なニワトリからできる健康的な卵や肉」という宣伝をしているわけです。またオーガニック農法ですと農地の中の昆虫や植物などの多様性が増えることは確かなようですが、単位面積当たりの収穫量が少ないため同じ量の作物を収穫するなら、より広い耕作地面積を必要とします。畜産についても同様で、同じ餌の量から得られる肉やミルクは通常農法より少なくなります。こうしたことを考慮した上で環境に良いと主張しているわけではない、ということにも注意が必要です。
動物の福祉や環境影響というのは食の安全とは直接関係しないのでFSAがこれ以上の検討を行うことは多分ないと思いますが、大切なメッセージは、消費者の選択は正しい情報が与えられた場合にのみ可能になるということです。間違った情報をもとに選択しているとしたら、それは消費者にとっては不幸なことですから、FSAは正しい情報を提供しようとしたのです。特に小さい子どもを持つ母親が、間違った情報により自分の子どもにオーガニック食品を与える経済的余裕がないことで罪悪感を覚えるというような事態を憂えていました。本当に大切なのは農法や産地や加工方法などにかかわりなく、いろいろな野菜や果物を十分にバランス良く摂るということなのです。
より明確にこのことを宣言しているのがニュージーランド食品基準庁(NZFSA)のAndrew McKenzie長官のコラム(要約)です。まとめとしてはこのコラムに言い尽くされているのですが、改めて確認すると以下のようになります。
- オーガニック製品が普通の製品より安全性の上でも栄養価や健康効果についても優れているという科学的根拠はない
- オーガニック製品に対する消費者の認識と科学的根拠の間には大きな隔たりがある
- 規制機関はオーガニックを支持も否定もしない、消費者が正確な情報に基づいて選択できるための努力を行っている
- 健康にとって大切なことは生産方法にかかわらず、野菜や果物をたくさん食べるバランスのとれた食生活を送ることである
オーガニック認証システムは各国で運用されていますが、高付加価値農産物として経済的メリットを得ることが主な目的です。贅沢品やブランド品を高値で買うという選択肢は自由主義経済ではあってしかるべきでしょう。有機認証は意味合いとしてはイスラム教徒のためのハラールhalal、ユダヤ教徒のためのコーシャ kosher、菜食主義者のための「ベジタリアンに適した」という表示と同じような分類になります。安全性についてはすべての食品について一定のレベルが保たれた上での、信仰や主義に基づく選択の自由を保証する制度というわけです。
ところが消費者の多くはそういう認識ではなかった、というのが今回の騒動で改めて浮き彫りにされてしまいました。FSAや今回の報告書の主任研究者の立場を例えるなら、詐欺の被害者に騙されていることを親切に教えてあげたら逆ギレされた、といったところでしょうか。
実は日本でも状況はそれほど変わらず、無農薬や減農薬や有機という言葉をなんとなく健康に良いもののように使っていることが多いと思います。明確な言葉の定義もないままに、「農薬は悪い」というイメージを感じさせる記事が、この「FoodScience」を発行する日経BP社の別のサイト「日経ビジネスONLINE」にもあり、残念に思います。「『人様に毒を売るわけにはいかない』から、無添加の水産加工品や無農薬の作物を作っている」という人の話ですが、食品添加物や農薬は毒であるとの誤解を読者に与えかねない点が気掛かりです。
オーガニック表示のある食品が一般食品より高値でスーパーに並んでいるという光景は日本では英国ほど一般的ではないものの、英国のことを笑えないというのが実情でしょう。
※このコラムは「FoodScience」(日経BP社)で発表され、同サイト閉鎖後に筆者の了解を得て「FoodWatchJapan」で無償公開しているものです。