「岸辺の旅」が描くしらたま

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しらたま

今回は現在公開中の映画「岸辺の旅」をご紹介する。本作は今年の第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で日本人として初めて監督賞を受賞している

 本作は、「夏の庭」(1994年に映画化、相米慎二監督で)や「ポプラの秋」(今年映画化、大森研一監督)といった著作がある作家、湯本香樹実が2010年に発表した小説を原作に、「アカルイミライ」(2003)、「トウキョウソナタ」(2008)等の黒沢清が監督した作品である。

 ストーリーは、失踪して3年後に幽霊として家に帰ってきた元歯科医の夫・優介(浅野忠信)とピアノ教師の妻・瑞希(深津絵里)が、優介の死地から家にたどり着くまでの道のりを夫婦でさかのぼっていく旅と、その行く先々でのエピソードを描いたものである。

死者を召還する“しらたま”

瑞希は夫の帰還を予期していたかのようにしらたまを作る。
瑞希は夫の帰還を予期していたかのようにしらたまを作る。

 映画は、上流家庭の子女を相手に退屈なピアノレッスンの日常を過ごしている瑞希が、ある日の帰りにスーパーで白玉粉や餡を買い込み、一人暮らしの自宅マンションの台所でしらたまを作るシーンから始まる。

 白玉粉を水で溶いてこね、餡を詰めて一口大の団子状に成形し、湯を沸騰させた鍋に放り込んでいくと、画面はにわかに非日常の香りを漂わせ始め、物陰から3年間行方不明だった優介が姿を現しても、観客は瑞希と同様、さほど違和感を感じることはない。このあたりの演出の間合いは、伊丹十三製作の「スウィートホーム」(1989)に始まり、「CURE」(1997)、「回路」(2001)、「ドッペルゲンガー」(2002)、「LOFT ロフト」(2005)、「叫」(2006)といったホラー映画でキャリアを積んだ黒沢の得意とするところである。

 瑞希が急にしらたまを作ろうと思い立ったのも、それが好物だった優介が帰って来る予感というか“虫の知らせ”があってのことかも知れず、その白くつるっとした様子や食感はシラタマ=霊魂を連想させもするのだが、実際に姿を現した優介は、土足で部屋に上がりこむことで足があることを強調し、ゆでたてのしらたまを急いで頬張って猫舌であることを披露するなど、およそ幽霊らしくない。

 しかし、しらたまを食べながら自分の体は入水自殺した海の底で蟹に食われてなくなってしまったと語る彼は、食べることも食われることも大差ないような素振りで、やはりこの世の人ではないのだなと感じさせる。

 翌朝、いつの間にか眠り込んでしまった瑞希は、目覚めて昨晩のことは夢だったのかと思いきや、傍らには優介がいて現実であることを思い知らされるのだが、この後も瑞希が目覚める度に今までのことは夢だったのかという反復があり、観客は映画全体が醒めない夢のような感覚に捉われる。そして彼女は、自分が旅してきた美しい風景を見に行こうという亡き夫の誘いに乗って家を後にするのだった。

 話をしらたまに戻すと、この映画の中でもう一度、瑞希が夫を呼び出すためにしらたまが登場する場面がある。優介の元同僚で生前の浮気相手だった朋子(蒼井優)のハガキをきっかけに夫と喧嘩別れしていったん自宅に戻った彼女が、朋子と会って再び彼との旅を続けることを決意するくだりで、原作では夫婦の今生の別れの食事として登場したしらたまとの相違が興味深いところである。

溝口健二とルイス・ブニュエル

 瑞希と優介が最初に訪れた地は、優介が新聞販売店を営む島影(小松政夫)に雇われて新聞配達のアルバイトをしていた丹沢の山あいにある小さな町だった。実は島影も優介と同じ幽霊なのだが、彼は自分が死んだことに気付いておらず、逃げた妻に深い未練を残していた。

 ある日、直らないパソコンの葬式代わりのすき焼きパーティーをしようという優介の提案を拒んだのは、癇癪持ちの彼が妻の前ですき焼き鍋をひっくり返した悔恨からで、折込チラシの花の写真を切り抜いたパッチワークも、いつか妻が帰って来た時のためのものだった。

 酔った勢いでそんな思いを優介に吐露して眠りについた翌朝、島影はこつ然と姿を消し、後には長い年月を経て風化した新聞販売店の廃墟が残される。このあたりの場面の転換は、溝口健二の「雨月物語」(1953)を想起させる。また、前述の夢の連鎖や夫婦が訪れる各所でのエピソードという構成はブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(本連載第6回参照)にも似ている。

 立教大学在学中に自主映画を撮る傍ら、フランス文学教授で映画評論家でもある蓮實重彦(元東京大学総長)から映画理論を学び、商業映画デビュー作のピンク映画「神田川淫乱戦争」(1983)、9人の新進映画監督(長谷川和彦、相米慎二、大森一樹、根岸吉太郎、高橋伴明、井筒和幸、石井聰亙、池田敏春、黒沢)が設立したディレクターズ・カンパニー配給の「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(1985)、哀川翔主演のVシネマ「勝手にしやがれ」シリーズ(1995~1996)、講師を務めた映画美学校のワークショップとして製作された「大いなる幻影」(1999)等で映画史の巨匠たちから影響された数多くの作品を撮ってきた黒沢のことだから、これらの作品は当然念頭にあったと思われる。

「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」でパリを彷徨するブルジョアたちが得られないものは“食べること”であったが、本作ではそれが“夫婦の営み”に置き換えられている。2人の旅はこの後、気のよい夫婦の営む定食屋のある町、山奥の農村へと続いていくのだが(詳しくは映画を観ていただきたい)、先の新聞配達に加え、定食屋でしらたまの相似形とも言える餃子をこしらえる職人、山奥の農村でこのたびの梶田隆章氏のノーベル物理学賞受賞でも話題になった素粒子の重さや宇宙の誕生についての話で村の人気者となった塾の先生等、生前には知らなかった歯科医である夫とは別の側面を瑞希は次々に知っていき、夫婦としての絆は生前よりもむしろ強くなっていく。そして得られなかったものの一線を越えた直後の入り江が、旅の終着地点となるのである。


【岸辺の旅】

公式サイト
http://kishibenotabi.com/
作品基本データ
英語タイトル:JOURNEY OF THE SHORE
製作国:日本 フランス
製作年:2015年
公開年月日:2015年10月1日
上映時間:128分
製作会社:「岸辺の旅」製作委員会
配給:ショウゲート
カラー/サイズ:カラー/シネマ・スコープ(1:2.35)
スタッフ
監督:黒沢清
脚本:宇治田隆史、黒沢清
原作:湯本香樹実:(「岸辺の旅」(文春文庫刊))
エグゼクティブプロデューサー:遠藤日登思、青木竹彦
企画協力:文藝春秋
製作:畠中達郎、和崎信哉、百武弘二、水口昌彦、山本浩、佐々木史朗
共同製作:COMME DES CINÉMAS
プロデューサー:松田広子、押田興将
撮影:芦澤明子
美術:安宅紀史
音楽:大友良英、江藤直子
音楽プロデューサー:佐々木次郎
録音:松本昇和
音響効果:伊藤瑞樹
照明:永田英則、飯村浩史
編集:今井剛
衣裳デザイン:小川久美子
ヘアメイク:細川昌子
助監督:菊地健雄
スクリプター:柳沼由加里
VFXスーパーバイザー:浅野秀二
ゼネラルプロデューサー:原田知明、小西真人
コープロデューサー:松本整、マサ・サワダ
V.E:鏡原圭吾
制作担当:芳野峻大
キャスト
薮内瑞希:深津絵里
薮内優介:浅野忠信
島影:小松政夫
フジエ:村岡希美
星谷薫:奥貫薫
タカシ:赤堀雅秋
松崎朋子:蒼井優
瑞希の父:首藤康之
星谷:柄本明

(参考文献:KINENOTE)

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映画ウォッチャー 埼玉県出身。子供のころからSF映画が好きで、高校時代にキューブリックの「2001年宇宙の旅」を観たところ、モノリスに遭遇したサルの如く芸術映画に目覚め、国・ジャンルを問わない“雑食系映画ファン”となる。20~30代の一般に“青春”と呼ばれる貴重な時をTV・映画撮影現場の小道具係として捧げるが、「映画は見ているうちが天国、作るのは地獄」という現実を嫌というほど思い知らされ、食関連分野の月刊誌の編集者に転向。現在は各種出版物やITメディアを制作する会社で働きながら年間鑑賞本数1,000本以上という“映画中毒生活”を続ける“ダメ中年”である。第5回・第7回・第8回の計3回、キネマ旬報社主催の映画検定1級試験に合格。第5回・第6回の田辺・弁慶映画祭の映画検定審査員も務めた。