養老乃瀧創業者の木下藤吉郎(本名=矢満田富勝)氏が今月3日肺炎のため逝去されました。95歳でした。御冥福をお祈りします。
木下氏は戦前の1938年、18歳の若さにして長野県松本市で創業。「富士食堂」という食堂の経営から始まって、商店、卸売業、さらにメディアにまで手を広げていったと聞きます。
戦後の1956年に本社を横浜に移し、「養老乃瀧」1号店を開店しました。これ以前の同社の食堂は、商品が増えてオペレーションの複雑さからスタッフに負荷がかかっていたのに対し、商品数を大幅に絞り込む道を考えた結果だったという説明を聞いたことがあります。そのためにご飯ものに大鉈を振るい、居酒屋業態への転換を図った。
しかし、その決断は決して消極的な選択ではなかったはずです。居酒屋という、高頻度で客単価は食堂よりずっと上というビジネスの魅力に気付いたとき、木下氏は戦国の秀吉のように「してやったり!」と膝を叩いたのではないかとも想像します。
その新しい業態で勝負に出るべく、その商勢圏の広げ方、店舗管理とロジスティクスを考えたとき、関東を出発点とすべきと考えたのでしょう。
ビジネスネームそのままの“今太閤”を思わせる積極果敢な様子は、1961年創刊の「月刊食堂」の初期のバックナンバーのインタビューにも表れていて、私もかつて胸を躍らせながら読んだものです。当時、同誌としては外食業におけるチェーンストア運動の一翼を担う気構えはあったものの、その事例を紹介しようとしたとき海外の店の話は書けても国内では個別の繁盛店の話しか拾えないという状況でした。
その同誌の記事の中で木下氏率いる養老乃瀧は全く異彩を放っていて、さながらヒーローのようであり、記者たちも同社の次の一手を知ろうとしゃにむに同氏を追いかけて回っていた雰囲気が伝わってきます。
今日、チェーンの居酒屋は40カ月以上に及ぶ不振の中にあります。それはお客が少しずつ減っていった結果というのではなく、業態が市場に合わなくなってきていると見るべきでしょう。その場合、過去の成功や、すでに出来上がっている仕組みにすがっていても、この先突然運が巡ってきて光明が差すということはないでしょう。
木下藤吉郎氏のような、ホームグラウンドでの成功をあっさりと脱ぎ捨てて、アウェイに新天地を築こうとする決断力と胆力のある新しい経営者の登場を、市場は待望しているのだと思います。
※このコラムはメールマガジンで公開したものです。