日本の農業は、とくに加工用の野菜生産に弱い。多くの方は、加工野菜というのは“B品”であろうと勘違いしているようだが、実は加工用のほうが品質の要求基準が高く、難しい。とくに、品質が均一であることが求められるのだが、前回説明したように日本の農業の現場には気候的、土壌的に均一化を阻む壁があるために難しい。
品質を語るには品質の均一化が大前提
「品質」と言った場合、多くの方が高品質のものであるかどうかということで考えがちだが、実際に品質を語るためには、まず品質の均一化が必要ということを忘れている。農産物としては正しいと言えるには、まずそこが満足できていることだ。
安定品質を目指すということは、見方を変えれば、高品質のものが出来るようにするよりも、低品質のものが出来ないようにするという方向で努力することである。というのは、仮に高品質のものがそこそこの割合で作られたとしても、低品質のものが同程度出来てしまったりすれば、生産者にとっても流通サイドにとってもロスが大きくなってしまう。その中で、仮に高品質のものを高価格で販売できたとしても、その他のものが低価格で流通するということになってしまうし、端物になってしまえばその処理にも手間がかかる。
チャンピオンデータを持つ高品質な農産物を求める市場があるのはわかるが、その意味も考えてほしい。それはニッチなマーケットであるために超高価格での販売が可能なのである。ということは、普通の人が日常食べる農産物には、そのような特別なものは求められていないということを意味している。
たとえば、加工野菜の場合。色、形、乾物重量が均一な野菜が届けば、工場はそのまま加工ラインに流すことができる。ところが、ここでバラツキがあれば人を雇って前処理をすることになり、その人件費の分だけ農産物の買取価格は下げられることになる。生鮮品として小売店に届いた場合も、店がそのまま並べれば「いつもと違う」と評判を落とすことになる。腕のいい料理人や家庭で調理する人なら多少の違いは調理でカバーするかもしれないが、負担をかけることに変わりない。
日本では絶対的に品質のいいものを作るという生産技術を追求しがちだが、使う人、食べる人のことを考えれば、まずその前に、品質が安定するような技術を磨かなくてはならないのである。100個のうち1個だけいいものが出来たとしても、商業的に考えれば全く意味がないのである。したがって、その圃場、その生産者から、実際にどのくらいの割合で高品質のものが得られるのかこそが問題であり、重要な点だ。
もちろん、周年出荷できるような作物でも時期によって出来不出来は変わる。これは、個々の技術上の問題と言うよりも、作物の性質上しかたのないことであるが、そのような中でも高品質とされるものを安定的に供給するという困難な目標に立ち向かう必要がある。
量がそろわなければ品質も無意味
しかし、問題はむしろ品質よりも量についてのほうが大きい。
とかく日本の生産者は品質の問題をよく語るが、実を言えば、農産物流通の世界では品質は二の次三の次の話である。末端の消費者にしても、食品工業や外食業などの需要者にしても、品質の善し悪しは量の問題に比べれば大した問題ではない。なぜなら、モノがなければ話にならないからだ。
スーパーの野菜売場でも、コンビニの弁当でも、外食のメニューでも、野菜がないということは考えられない。ところが、実際には天候の具合によっては全くと言っていいほど野菜の流通がなくなるときが出てきてしまう。そうなると、品質は問題にならなくなってくる。野菜がなければ、そもそも善し悪しを語るべき商品そのものが出来ないからだ。
このような重大な課題、需用者・消費者がなんとしてもクリアしてほしいと願っているニーズがありながら、野菜が極端に不足するときがあるという問題はなかなか解決できていない。そして、野菜が極端に不足したときに、実際の流通の現場で何が起こるかというと、品質度外視での現物調達である。これは、当然のことだ。小売でも製造業でも、あるべきものが一品でも欠品すれば、すべてがないのと同じことになる。
その一方で、多くの生産者は、もっと高品質なもの、もっと高く売れるものをとばかり考えているのでは、ニーズ把握を怠っていると言わざるを得ない。多くの生産現場で品質の追及が目差されている中、実際に要求されているのは、現物の確保なのである。先に書いた品質の問題も含めて、日本の農業技術というのは、顧客なり市場なりが求めていないものを追求しすぎているのである。
生産者の希望を聞くと、多くの場合は、“いいものを高価格で販売して経営を安定させるために技術の追求を行なっている”というように答える人が多く、多くの生産者は実際にその方向に向かっている。
また、最近多くの生産者が直販で“高品質な”青果を高値で売ったり、ブランド化に取り組んだりしているが、これを主流と見て追随することは正しいこと、つまり活路と言えるだろうか。いわゆる高品質のもののニーズはかなり特殊であり、その市場は小さいはずだ。そして実際、それは狭き門なのだ。「これはいいものですので高値で購入してください」という生産側の論理は、ほとんどの場合通用しない。
なぜ通用しないか、その理由の一つは、何をもって“高品質”とするのかが曖昧だからだ。生産者と需要者で納得し合える“高品質”の基準が共有されていない。農産物以外のものでもそうなのだが、作り手・供給者が「いいものです」というものは本当にいいものなのか、優れた経営者は常にそこを自問している。「いいものです」と言えるためには、当然、ニーズに合ったものを作るべきなのだが、日本の多くの農業生産者はこのニーズというものを把握しきれていないようだ。
なぜメインのニーズ、大きな市場に対応しようと考えないのだろうか。なぜ、安定品質と安定供給という大きく確かなニーズを無視して、特殊な技術の研鑽に励むのだろうか。
この疑問は、筆者一人が抱いているものではない。実際に流通業関係者と話すと、私がここまで述べたことにほとんどの人が同意見で、生産者との意識の乖離に驚くことが多い。
これについては、稿を改めて詳しく書くことにするが、こと生産に関しては、生産現場のひとりよがりな方向性が見え隠れしていることは押さえておいていただきたい。