筆者がこの十年余にわたって帝国ホテル版マウント・フジの謎に挑む過程でまとめてきた「帝国ホテルバーテンダーの系譜」をお目にかける。基本的な資料は今から半世紀以上前の日本バーテンダー協会会誌「ドリンクス」だが、これにさまざまな資料で見つけた事実を加えている。
帝国ホテルの戦前の歴代バーテンダー
最も古い記録として残っている帝国ホテルのバーテンダーは、1959年に5人目のミスター・バーテンダー(※)として表彰された秋田清六で、彼は明治末期から大正時代中期に在籍している。その後秋田は、日本のバーで最高レベルだと思っていた帝国を凌駕する横浜グランドホテルの存在を知って、同ホテルに移っている。
初代帝国ホテルが大正8(1919)年に焼失し、翌年再建された別館でチーフだったのは玉田芳太郎。彼は大正11(1922)年11月に竣工した東京會舘にチーフとして転じている。この東京會舘では浜田晶吾(最初のミスター・バーテンダー)がセカンドを勤めていた。
玉田の次にチーフに収まったのが。大阪登章だった。ここに本多春吉(2人目のミスター・バーテンダー)がセカンドとして入る。
その後、藤生和邦が入るが短く、大正12(1923)年末以降は片手振りで有名な浅倉信次郎(3人目のミスター・バーテンダー)が昭和19(1944)年までチーフを務めている。
戦前の帝国ホテルには他にも古い方から斉藤守男、吉田政吉、日山理策、土橋篤、岩崎月といったバーテンダーがカウンターに立っていたが、ミスター・バーテンダーとして表彰された人々を除けば、現在も銀座でバーテンダーをされている吉田貢の父に当たる吉田政吉を含めて、彼らの資料はほとんど残っていない。
戦前の帝国ホテルは上に挙げた日本バーテンダー協会の受賞歴でもわかるように多士済々で、とくに浜田晶吾と本多春吉に関しては後日別の話で書くことにするが、ここでは大阪登章についてもう少し詳しく見ていきたい。彼こそが、帝国ホテル版マウント・フジを考案した可能性が高いのだ。
30歳のチーフバーテンダー
明治38(1905)年に16歳で東京オリエンタルホテルに入った大阪は、その後居留地で独自の外来文化を開花させた神戸の東亜ホテル(※)に移る。そこで頭角を現した大阪が30歳の若さで帝国ホテルのチーフ・バーテンダーとなったのは、大正8年である。
なお、筆者の手元にある資料には「東亜ホテル」としか記載されていないのだが、東京や横浜には該当するホテル名が存在しない。海外では、現在のザ・ペニンシュラ香港も戦時中に日本軍が新界・九龍半島を占拠した際に接収されて東亜ホテルと呼ばれた時期があるものの、竣工は昭和3(1928)年であるため該当しない。
また、大阪が東亜ホテルのチーフ・バーテンダーを勤めた次の職場が帝国ホテルのチーフだから、帝国に入る前段階としてかなり格式が高いホテルであったはずである。その点、明治41(1908)年創業の神戸の東亜ホテルは、同地ではオリエンタルホテルと並ぶ古い歴史を誇る。本来はトア=Tor表記で、現在でも「トア・ロード」という名前にその歴史を残しているが(トア・ロードの由来には他説もある)、日本人の間では「東亜ホテル」という呼称が一般的だった。これらを考えて、大阪がチーフ・バーテンダーとなったのは神戸の東亜ホテルであったと判断した。
その後帝国ホテルを辞めた大阪は、丸ビルの東洋軒や華族会館でチーフを歴任し、戦前日本軍が接収したマニラホテルでもチーフを勤めているから、もし生前にインタビューができていたらマウント・フジを含めて興味深い話が聞けたに違いない。彼に関する証言は数少ないのだが、帝国ホテルの後に勤めた三州屋という店(名前からレストランに併設されたバーの可能性が高い)にいた頃、近くのホテルから洋酒を借りに来たという逸話があり、大正12年の段階では日本有数の洋酒に関する知識を持っていた人物だと思われる。
山口・大阪によるマウント・フジ考案
ここまで揃えた状況証拠から、筆者が推測したマウント・フジの誕生物語は、次のような形になる。
明治40(1907)年に欧米でさまざまな経験を積んで帰ってきた後も、大正5(1916)年、大正8年とアメリカの最新ホテル事情を視察していた富士屋ホテルの専務取締役山口正造のもとに、帝国ホテル支配人就任の要請が来る。折から帝国ホテルは天才肌の建築家フランク・ロイド・ライトによる本館が完成間近だった。
引き受けた山口のもとに、今度は海外から世界一周旅行団が日本にやって来るという知らせが届く。富裕階級の口コミはまたとない宣伝だから、彼らを歓迎することで帝国ホテルの名を世界に広めたいが、かさむ建築費で大赤字の懐事情から、出来ることは限られている。そこで山口がさんざん考えた末に思いついたのが、日本らしいオリジナル・カクテルで彼らをもてなすことだった。山口はさっそく大阪を呼んでオリジナルカクテルの考案を命じる。
とは言っても、既存のカクテルと配分が同じものを名前を変えて出したことになると帝国ホテルの看板に泥を塗ることになる。そういう点でも、東亜ホテルでチーフを務めてカクテルの調製経験が豊富だった大阪登章は適任だった。
ここまではほぼ資料で固められる。問題はここからだ。
※ミスター・バーテンダー:日本バーテンダー協会(NBA)による顕彰の一つ。会員歴30年以上、支部、統括本部、協会役員歴25年以上で、年令60才以上、協会会長経験者かそれを上回る功績のある常務理事以上の役職経験者などの条件で選ばれる。