マウント・フジを、日本を代表するカクテルの一つとして御存知の方も多いだろう。昨年拙稿で取り上げたラムベースのJBA版マウント・フジ(IV 赤くなかった“赤富士”)の方がカクテルブックでは一般的だが、ジンと卵白を使用する帝国ホテル版があることも、かなり広く知られている。
マウント・フジの完璧な誕生物語
日本を象徴する霊峰「マウント・フジ」(富士山)と、戦前から長きに渡って海外から日本への表玄関となっていた「帝国ホテル」。この二つを並べただけでも威厳があるが、さらにカクテルブックに書かれたエピソードではこうなっている――「1924(大正13)年に世界一周旅行団が帝国ホテルを訪れた際に考案されたカクテル」。これほどエピソードと名前、そして我々が漠然とイメージする歴史にしっくりくるカクテルも珍しいだろう。
十数年前にクレジットカードの会報に書くためにこのカクテルについて調べ始めたとき、多くの人がそうであるように、筆者も当初はこのストーリーを微塵も疑っていなかった。当時の日本随一の迎賓ホテルとしての帝国ホテルの品格からすれば、世界一周旅行団が日本に来たときに帝国ホテルに投宿することに不思議はないし、彼らをオリジナル・カクテルで饗応するというストーリーも完璧で、疑問を持つ余地さえ見当たらない。
事実と異なる逸話
もう少し何かサイドストーリーを示す資料や証言は残っていないだろうか。そんな軽い気持ちで帝国ホテルの広報にうかがって、「残念ですが……」と告げられたのは10年以上前になる。今回マウント・フジの謎を探るために改めて帝国ホテルに確かめたところ、現在はマウント・フジの由来について尋ねられた場合、広報は発祥が「大正13年」とは答えても、「世界一周旅行団」のエピソードは割愛する場合が多いという。
戦前、とくに明治期以降の日本における洋酒文化について定本ということができる資料は現時点で存在しない。だから、「日本のカクテルの歴史」と言えば、「鹿鳴館時代はカクテルが飲まれていた“らしい”」という真偽も不明な話に始まって、大正・戦前昭和を飛ばして一足飛びに戦後、進駐軍がカクテルを持ち込んだ……というのが戦後長く伝えられてきた「歴史」だった。
それが事実と異なっていることは本稿で明らかにしてきたが、日本の洋酒史の発掘というのは一筋縄ではいかない。洋酒よりは研究が進んでいる西洋料理史の研究書が多く出ているのを横目に見ながら、未知の鉱脈に向かって筆者が一人でスコップを振り回しているようなもので、スタッフを抱えているわけでも大学の研究施設に籍を置いているわけでもない身分としては“資料の欠乏”という硬い岩盤に突き当たると迂回せざるを得ない。これまでもたびたび迂回してきたが、そのことが逆に功を奏して「日米交流史」という大学の講義に出て来そうな話から思わぬ真実がほころび出たのがジャパニーズ・カクテルだったことを読者には今一度思い起こしていただきたい(VIII 日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド)。回り道も、また道なりというわけで、今回もそこそこ長い話になるかもしれない。
国の威信をかけたホテル
筆者はこのマウント・フジ誕生にまつわるサイドストーリーを補強するため、大正元(1912)年に海外の観光客誘致の目的で発足したジャパン・ツーリスト・ビューロー(公益財団法人日本交通公社。ジェイティービー設立の母胎)の記録と、出入国する外国人の動静に詳しい横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)を中心に、大正13年(1924)の世界一周旅行団を調べ始めた。
この辺の話に筆を進めるのは次回以降に譲るとして、その前に、大正から昭和にかけて「東京會舘」と並んで日本のバーの頂点に君臨した帝国ホテルのことを押さえておきたい。正直に言えば、筆者も戦前の洋酒文化を調べるまでは、帝国ホテルとは「戦前からある、日本の由緒あるホテル」程度の認識しかなかった。いったん酒の話から少し離れるが、そもそも帝国ホテルがなぜ、どのような経緯で出来たのかから説明していきたい。
開国後、伝説となった「築地ホテル館」が慶応4(1868)年のオープンからわずか5年の明治5年(1872)に焼失すると、明治政府の迎賓館である「延遼館」(1869年落成)以外には首都に海外の賓客を招く設備がないこととなり、これは明治政府発足当初からの懸念だった。
とにかく一刻も早く日本を西欧に伍する一等国として認めて貰わねばならない。それは開国前から不平等条約で煮え湯を飲まされていた日本の悲願でもあった。そして、一等国として認めてもらうために明治政府が打ち出したのが鹿鳴館と帝国ホテルだった。他にも、精養軒による本格フランス料理や外国人居留地から皇居までの道路整備、銀座の煉瓦街や「一丁ロンドン」と呼ばれた官庁街の整備等々、細かいことを挙げればきりがないのだが、帝国ホテルはときの外務大臣井上馨による欧化政策の掛け声の元、まさに国の威信をかけたホテルとして明治23(1890)年11月7日に開業した。ドイツ留学帰りの渡辺譲の設計による木骨煉瓦造り、三層(屋根裏一層を含む)からなるドイツ・ネオ・ルネッサンス風の初代帝国ホテルである(現在我々が「戦前の帝国ホテル」としてイメージする、愛知県犬山市の明治村に移築されたライト館は二代目に当たる)。