ジンの歴史は蒸溜技術を人間が知った頃からさほど時を置かずに始まっているので、その“創世記”には学生時代にしか縁のなさそうなヨーロッパの王様の名前や事件がひょいひょい顔を出して面喰らう。ここで細かいジンの足取りと成長過程を調べていると、いつまでたっても日本にたどり着けなくなるので、19世紀にジンとトニックが邂逅を果たすまでを駆け足で簡単に見ていこう。
英蘭の一筋縄では理解できない仲
錬金術がアルコール度数の高いスピリッツを生み出し、それがウイスキーやウォッカ、ラムやテキーラとして世界中に拡散していった歴史を、高校の世界史程度の知識しか持ち合わせていない筆者が読者にわかりやすく説明することは難しいのだが、その中でも「オランダ/ジュネバ」が「イギリス/ドライジン」に移行していく過程は調べれば調べるほど複雑で、到底一筋縄ではいかない。
4回に渡って英蘭戦争を起こしているから、さぞかし両国の仲が悪いかと思えば、第三次英蘭戦争と第四次英蘭戦争の合間には名誉革命でオレンジ公ウィリアムをオランダからイギリスがいきなり王として迎えたりしている(名誉革命。1688~89)から、調べている筆者は頭を抱えるばかりだ。
ともあれ個々の歴史的な事象を離れた、おおまかな「流れ」として見ると、両国は海洋国家として覇権を争うライバル国同士であり、オランダからイギリスに覇権が移行していく過程で、とくに直接相手と渡り合う兵士のレベルでの接点が増えていった結果、イギリスはジュネバを知るようになったと推測される(前回紹介した「Classic Gin」=ジェラルディン・コーテス著 では三十年戦争で英蘭が同じ側に立って戦ったことがジュネバがイギリスにもたらされたきっかけとしているが、イギリスは三十年戦争には一部の傭兵を送り込んだだけで、もっぱら資金援助にとどまっているため、両国兵士の交流が始まりだったという「Classic Gin」の主張を拙稿では採用しない)。
ジュネバからオールド・トムジン、そしてロンドン・ドライジンへ
1621年にはロンドンだけでも200カ所の蒸留所があったので蒸留について技術的な素地はあったから、オランダからイギリスにもたらされたジュネバはすぐにイギリス国内でも生産されるようになっていた。
筆者は以前から、ロンドン・ドライジンに甘みを加えただけのトムジンがなぜ別名で売られたり、カクテルの原料として指定されているのかが不思議だったのだが、今回改めて調べてわかったのは、蒸溜技術の向上に伴って異臭とされるフーゼル香が、時代の進展に伴ってかなりのレベルまで除去できるようになった結果、フーゼル香抑えに使われていたジュニパーと砂糖が減っていったという時代の流れだった。
つまり、ドライジンに砂糖を加えてトムジンが出来たわけではなく、逆にジュネバからトムジン、そしてドライジンへと進化していく過程で砂糖の含有量が漸減していき、ジュニパーも薬用とフーゼル香抑えと言う当初の目的を離れて、爽やかな香味をスピリッツに残すためのボタニカル(香味用のハーブ)へと役割を変えていったということだった。
過度の飲酒の弊害に警鐘を鳴らした、有名なホガースの「ジン横丁」が描かれた時期はちょうどその変換期に当たる。
品質の向上に伴い、ジンに対するイギリスの見方も変わってくる。それまでコーヒー好きだったイギリスが、愛国的な動機から自国の東インド会社から調達される紅茶文化に替わったのは有名な話だが、酒の世界でもジンは愛国の象徴となり、味わいがスムーズになったこともあって“兵隊はラムで士官はジン”という色分けがされていく。
そして、優秀な造船技術でオランダから覇権を奪い、大英帝国を築き上げたイギリスが向かったのが、インドだった。
マラリア予防薬がジントニックの起源だった
植民地支配を進めていく過程で、多くのイギリス人がインドにやって来たときに悩まされたのが、マラリア・黄熱病だった。彼らは水や衛生の問題で苦しんでジンにビタースを落としたものを胃痛の際には飲んでいたが、やがてスペインがアステカで発見しマラリヤの特効薬とされていたキナ(フィーバーツリー)の薬効に注目する。
それまでマラリアはペストと並んで世界中の人々から恐れられていたこともあって、キナはまたたく間に世界中に知られるようになった。昔、胡椒がシルクロードで運ばれていた時代には目が飛び出るほどの高価で取引されていた時代があったが、キナもほとんど同様だった。先述のClassic Ginの記述に従えば、マラリアの薬効に注目したスペインが国外への種子の持ち出しを厳禁していたためにキナの樹皮が同じ斤量の金で取引されていた時代もあったという。イギリスがインドに大量にキナを持ち込んだのは、オランダがアステカから密かに持ち出したキナの苗木をジャワに持ち込み、栽培に成功(1867)して以降のことになる。
キナの樹皮はかなり苦みが強いため、インドでは清涼感を求めてソーダにガムシロップ、レモン果汁を加えて、それにキナの皮を削って入れたものを飲んでいた。これこそが現在のトニックウォーターの原型で、キナのアルカロイド(キナ皮の薬効成分)であるキニーネを分離したのは1920年のフランスだから、それまでは樹皮を削って直接浸漬したり、細かい粉末にして加える方法でトニックウォーターを作っていた。
こうして薬効とフーゼル香抑えの必要からフランドル、続いてオランダでアルコールに杜松子(ジュニパーベリー)と砂糖を加えたジュネバが作られ、それが近代的な酒であるロンドン・ドライジンに進化する一方、はるか中南米のインカ帝国でスペインが発見した植物の成分がオランダの大量栽培によって世界に広がり、それをイギリスがインドに持ち込んだジンと合わせて飲まれるようになったのがジントニックだった。
つまり、大航海時代の壮大なスケールでオランダ・イギリス・スペイン・インドと言った、当時の世界史を賑わせた国々がさまざまな形で関与した歴史が、我々がバーで気軽に飲んでいた一杯のジントニックには秘められていたわけである。