外車メーカーはビジュアル・アイデンティティの統一にも注力しているが、必ずしも徹底しているとは言えない。また、ヨーロッパ車よりも性能・品質で優れている国産車は多い。それでもヨーロッパ車が高いブランドを維持できている。そこからわかるのは、ブランドの本質はビジュアルでも品質でもない何かであるということだ。
ビジュアル・アイデンティティも品質も完璧ではない
外車メーカーはまた、商品とサービスを提供する店舗のビジュアルについても、もちろん戦略を持っている。とくに、建物構造や店頭について一貫するビジュアル・アイデンティティ(VI。単に看板や掲示物だけの問題ではなく、見えるものすべてについて)を持っており、その方針に適合した店舗に改装する(させる)などの活動も大胆に進めている。
しかしながら、現実には同じメーカー傘下の販売店でも、販売店ごとにVIの徹底度には大きな差を生じており、なかなか全チェーン(全販売店網)を通じた均質なイメージを作り上げているとは言い難い。このために、メーカーから顧客接点までを一貫するインテグリティ(integrity/統合性)を実現できているとは言えない状態だ。
こうなるには多くの原因・要因が挙げられるが、本題でないのでここでは割愛する。
また、外車の品質面を取り上げてみても、たとえばメルセデス、BMWのいずれを取っても日本車より優れているとは言い難い。これはスペックからも言えるし、日本車ではあまりないちょっとした故障がしばしばあることは、それらのユーザーと話しているとよく出てくる話である。
にもかかわらず、メルセデスやBMWのブランド力に大きなが陰りが出ていることは今のところない。これがブランドというものの“得体のしれなさ”を物語る一面である。
ともかく、ここから学べることは、VIも、製品の性能・品質も、ブランドの本質ではないということだ。
ブランドがユーザーを高め、ユーザーがブランドを高める
では、よりブランドの本質に近いところにあるものは何か。これは簡単に答えられることではないが、ここでは手がかりを示しておくことにする。
すなわち、検討いただきたいのは、善し悪しという尺度とは関わりなく存在する個性というものである。
たとえば、ヨーロッパ車には優美なスタイリングと、それが醸し出すはっきりした個性がある。優美という言葉には優の字が含まれて、一見優劣のあるものと感じるかもしれないが、実際には美しさと個性とは、ともに定量的に測れる価値ではない。
また、ヨーロッパ車に乗ることは、単に移動のための行動ではなく、その人のステータスやライフスタイルの表現となっている。ヨーロッパ車を所有することや乗ることは、その人が社会的に認知・承認されることを実現するシンボル・表象となっている。そして、そのユーザーたちがまた、その車のブランドを構成するのである。
ヨーロッパ車などの外車メーカーでは、トップ自身がしばしばメディアに登場し、自社のブランドに関してストーリーや体験を語ることが多いのは、そのことと関係があると考えられる。この点は、日本車のメーカーとは大きく異なっている。
自動車産業に比べれば、日本の外食企業はトップがメディアに出るケースは多いかもしれない。食品メーカーはそれよりも少ないのではないか。
では、トップがメディアに出た場合に、どのような個性やライフスタイルを伝えているだろうか。あるいは単に既存業界の破壊者としての強烈な個性を押すだけだろうか。またトップがメディアに出ない企業は、ほかの何によってブランドの個性やそれを使う人のライフスタイルを表現しているだろうか。
この点はよく検証しておきたいものだ。