J.トーマスの事績をたどると、彼がサンフランシスコにいたこと、バーテンダーの仕事を欧米に広めたことなどがわかる。そして、万延元年遣米使節がニューヨークに到達したとき、彼のバーはサムライたちの宿泊先の目と鼻の先にあった。
サンフランシスコでバーテンダーになったJ.トーマス
本格バーテンダーの始祖とされるJerry Thomasの名前は、残念ながら日本では必ずしも有名ではない。試しに、Googleで「ジェリー・トーマス」と日本語で入力して検索してみると、5件もいかないうちに「機関車トーマス」が顔を出す。ウィキペディア(日本版)には彼の項目そのものが存在しない(2012年8月現在)。また、英語版ウィキペディアでも「The Bartender’s Guide / How to Mix Drinks / THE Bon Vivant’s Companion」発表以前の彼のバーテンダー歴にはさほど詳しくは触れられていない(2012年8月調べ)。
そこで改めて説明すると、彼は1830年ニューヨークに生まれて、18歳の頃にサンフランシスコ・エルドラドホテルでバーテンダーとして働いている。
その後、金鉱掘りで得た金で開いたサルーン(saloon/アメリカのバーの前身)を経営したあたりから、彼は荒くれ男たちに無言でウイスキーやアップルジャック(アップル・ブランデー)のストレートを突き出すサルーンやタバーン(Tavern/サルーン以前酒場。食事処と酒場がまだ未分化)の流儀に飽き足らないものを感じ始めていた。
彼は二十歳そこそこでカリフォルニアでミンストレル・ショー(minstrel show/白人が黒人に扮して演じるミュージック・パフォーマンス)の興行主となるほど実業の才があった人だが、その後はシカゴのバーで経験を積み、セントルイスではプランターズ・ホテルのチーフ・バーテンダーとなっている。
バーテンダーの仕事を社会に知らしめたJ.トーマス
その後サンフランシスコでチーフ・バーテンダーとして働いたのちに、声がかかってニューヨークに呼び戻されて一流ホテル、メトロポリタンでチーフを勤めた。年代を特定した資料は見つからなかったが、文章の前後関係から、万延元年遣米使節が訪米した1860年以前と思われる。この頃には「トーマス印のビター」が出るほどの、バーテンダー業界で押しも押されもしない第一人者になっていた。
1859年、つまり遣米使節訪米の前年にはバーテンダーという仕事を世界的に認知させるために、わざわざ4000ドルで特注した銀製バーツールをトランクに詰めて海を渡り、イギリスやフランスでそれまでに培った技術を披露している。
話は少し飛ぶが、昭和40年代、日本の新聞の三面記事に暴力沙汰を起こした「バーテン」の記事が紙面を賑わせたことがあった。JBA(現NBA)がたまりかねて、新聞社に「ワイシャツ姿のアルバイトがカウンターに立っただけで『バーテン』扱いしないでくれ」と申し入れをしたときも、「欧米ではバーテンダーは尊敬を受ける仕事だ」と説明している。
その際にJBAがJ.トーマスの功績を説明していたかどうかは定かではないが、19世紀に欧米で誕生したバーテンダーと言う職業が尊敬を勝ち得るに至った背景には、いささか派手好きではあるものの、情熱と才気に溢れていたJ.トーマスの存在があった。まだ登場してから日が浅い「バーテンダー」という仕事を社会的に認められる存在にしようという、J.トーマスの努力とひたすらな想いがあり、そのことが、世界初のカクテルブックを刊行した功績以上に、彼が「バーテンダーの祖」として現在も世界中のバーテンダー達から尊敬されている理由であることは知っておいていいだろう。
バーテンダー第一人者と話題のサムライ訪米使節団
さて、1860年6月のニューヨークの様子をおさらいをしておこう。
まだ世間に十分認知されていないバーテンダーという職業で第一人者になった男=J.トーマスが、ニューヨークにいた。ここでは折から、他のヨーロッパ列強ではなく「我々の国、アメリカ」に対して初めて門戸を開く条約を結んだ「ジャパン」という国の使節団の話題で持ちきりだった。ニューヨークタイムスを初めとする新聞が刻一刻とニューヨークに近付いてくる使節団の消息を報じており、彼らの宿泊先となるメトロポリタン・ホテルとは目と鼻の先であるJ.トーマスのバーもその話題で持ちきりだっただろう。
この状況を把握していただくことが、本稿の最後に明かす“誰も解き明かせなかった「ジャパニーズ・カクテル」の味の秘密”へと読者をいざなうことになる。