「ジャパニーズ・カクテル」が「ミカド」の別名で呼ばれるようになった経緯は前回まででわかった。では、そもそもなぜアメリカで「ジャパニーズ・カクテル」が考案されたのか。それを解くカギは、黒船来航の頃の日米の往来にある。
「ジャパニーズ・カクテル」が日本ブームより5年早い謎
こうして、欧米では「ジャパニーズ・カクテル? ……あぁ、ミカドのことね」と明治20年代以降は通称の方が一般的になり、昭和5(1930)年のサヴォイ・カクテルブックにも本来の名称である「ジャパニーズ・カクテル」ではなく「ミカド」として記載されるようになったのである。うがった見方をすれば、サヴォイ・ホテルのドイリー・カートがプロモーションする軽歌劇ミカドがこのカクテルを広めた功績は間違いないから、そのサヴォイで書かれたカクテルブックに「ジャパニーズ」が「ミカド」として記載されたのは当然の帰結だったとも言える。
しかし、以上はあくまでも「ジャパニーズ・カクテル」が「ミカド」と呼ばれて広がった理由であり、そもそも開国直後になぜ「ジャパニーズ・カクテル」が誕生したか、の説明にはなっていない。
軽歌劇ミカドが上演されて、曲がりなりにも日本文化が欧米に認知されたのが1885年。そこから遡って、日本の工芸品が多く展示されて話題となった3回目のパリ万博が1878年。その前後に日本がフランス・印象派を魅了したジャポニスムがあり、日本(江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩)が初めて海外に向けて自国をPRした2回目のパリ万博(1867)まで遡っても、ジャパニーズ・カクテル登場(1862)に届かないのだ。とくに第2回パリ万博はアメリカが「新世界の飲料」としてカクテルを自国のブースで宣伝した洋酒史上に残る重要な万博なのだが、コブラーやスマッシュと一緒にカクテルが出されたことは伝わっているものの、パリ万博関連資料でカクテルと日本を併せて論じた研究書は見たことがない。
筆者は日本ブームが欧米にやってきた時期と「ジャパニーズ・カクテル」が初めて世に出た時期の間に立ちはだかる5年間の“時間の壁”を崩すために、さらに資料を探し続けた。その結果を伝える前に、読者の方々にはご苦労だが、もう少々回り道に付き合っていただいて、当時のアメリカの事情を説明するところから始めたい。
アメリカにとっての黒船の意味
列強がインドや中国に進出して来て、日本も防備を固めねばならない……と思っていたところにアメリカのペリーが4隻の黒船を率いて来た。煙を吐きながら船の両脇に供えられた2つの大きな水車(外輪)を回して進む威容と、彼が持参した蒸気機関車の模型を始めとする西欧列強との文化の格差に驚いた江戸幕府が彼我の科学技術の格差をまざまざと見せつけられた結果、しぶしぶ開国を承諾した……筆者が30年以上前に受けた歴史の授業では、まぁこんな感じだった。今でもさほど変わっていないことだろう。
ところが、開国の周辺を調べてみると、大筋では間違っていないものの、こちら(日本)から見たときの見え方と、向こう側、つまりアメリカから見た見え方とでは、その様相が異なってくることが徐々にわかってきた。筆者が最初に驚いたのは、アメリカ本国にも日本遠征に使える蒸気船は4隻しかなく、ペリーはそのうち3隻を使う計画を提出したもののミシシッピ号1隻しか確保できず、東インド艦隊からサスケハナ号を調達したことと、さらに当初13隻で威容を誇る艦隊を江戸幕府に見せつけるはずだったものの、ようやく確保できたのが上の蒸気船2隻と帆船2隻だったことだった。
ペリーもかなり無理をしたものの、予定した“威容”には程遠い装備でやって来ていたわけで、船の隻数をかき集めるのに苦労する彼の姿は、あの余裕たっぷりの表情で浦賀奉行との会見に臨んだという我々のイメージとはかけ離れている。
とは言え、生き馬の目を抜く外交の世界では“ハッタリ”はバレさえしなければ“アリ”の世界だ。ペリーも、煙をモクモクと吐く最新型の真っ黒な外輪式蒸気船が、帆船しか知らない日本の人々の前に姿を現わせばどう見えるかを十分計算した上で、その効果を最大限にするために中国に停泊していたもう1隻の黒船を伴い、帆船2隻で水増しし、幕府は計算通りに恐れおののいてくれた……という一面があったのだ。
ここからが本題になるが、我々開国“させられた”側は、アメリカでもフランスでも「欧米列強」としてひとくくりにしがちだが、実はアメリカには他のヨーロッパ列強とは異なる、ある固有の事情があった。
アメリカが特別視した日本
独立戦争に続く米墨戦争をどうにか終えて太平洋の玄関口を確保したばかりのアメリカは、ヨーロッパ列強、つまりフランス、イギリス、プロシアなどに比べればあらゆる意味で新興国、それも移民が作った国として一等下に見られていた。ところが、ロシアやヨーロッパ列強が何度叩いても開国の申し出を拒み続けていた東洋の国の固く閉ざされていた門を、「移民が作った、砂漠とバッファローしかない後進国」がこじ開けることに成功した。これはアメリカにとっては疑いもなく外交的な大勝利で、対外、とくに欧州に対してアメリカが面目を果たす画期的な出来事だったことになる。言ってみれば、独立戦争を終えて、ようやく国としてのスタートを切ったばかりのアメリカが英・仏・プロシアといった当時の先進国と肩を並べる機会を徳川幕府が与えてくれたという見方さえできることになる。
日本を砲艦外交(武力的な示威による恫喝的な外交)で力づくに組み伏せるならば、インドや中国での経験が豊富なイギリスの方が得意だったし、幕府と貴重なパイプを有するオランダがそれを他国に振りかざして上手にに立ちまわれば、日本との交渉はオランダを通す形にまとまる可能性もあった(ペリーはオランダからの妨害を避けるためにあえて出島への寄港をしなかった)。
何より、サンフランシスコやシアトルの港はまだ整備が始まったばかりであり、太平洋に展開できるアメリカ艦隊は第2回のペリー来航の時でさえ皆無だった。東回り航路ではるばる大西洋・インド洋を越えて来るアメリカ艦隊が、さまざまな制約を見えぬようにして日本に「強大国家アメリカ」をアピールすることに成功したことは、たとえて言えば高校野球のエースがいつの間にか大リーグのベンチに忍び込み、あれよあれよと言う間にバッターボックスに立って場外ホームランを放ったようなものだった。
その意味からも、日米和親条約、日米修好通商条約を他国に先駆けてアメリカと結んで、アメリカを外交先進国たらしめるきっかけを作ってくれた日本は(たとえ幕府が渋々であったとしても)、当時のアメリカ人にとって特別な存在であった。
そのことが、ジャパニーズ・カクテル誕生の一因となっていく。だからこそ、アメリカは外交団の訪米という晴れ舞台のためにわざわざ自国の船を出して、送り迎え付きという破格の待遇で日本からの日米修好通商条約を批准する一行を大歓迎した。こうして1カ月半をかけて太平洋を渡ってやってきた彼らの中の一人のサムライが、ジャパニーズ・カクテル誕生のきっかけとなる。