来日する外国人が増えるにつれて、外国人居留地ではホテル・ラッシュが始まった。その集客競争の中で、カクテルに目を付けたのが、インターナショナル・ホテルを仕切っていたイギリスの退役軍人パーヴィスだった。
競争時代に突入した居留地のホテル
日本が開国の荒波をどうにか乗り切り、政権が江戸幕府から明治政府に移ったころ、増加してきた外国人の需要に応えるためのホテルが横浜居留地内に建ち始める。
最初は民宿レベルだった居留地のホテルも、フフナーゲル・ホテル(ヨコハマ・ホテル)を辞めた「男爵」マコーリーがロイヤル・ブリティッシュ・ホテルを始めたのを皮切りに、ユナイテッド・クラブ(本来はイギリス軍の保養施設だが一般にも宿泊施設を開放)やアングロ・サクソン・ホテルと数が増えていった。それに伴って、ホテル同士の顧客獲得競争が始まった。
そんな明治7(1874)年、あるホテルが差別化のために、欧米の最新流行を取り入れようと考える。
19世紀後半という時代を念頭に置いた場合、ホテルが客に“売り物”としてアピールできるのはどのようなことだったのだろう。冷暖房、とくに冷房完備がうたい文句になるのは戦後もしばらくたった後だし、広いプールなどはもっての外だ。
各部屋ごとのトイレとシャワールームは現在では安価なビジネスホテルでも常識だが、19世紀には途方もない贅沢だった。なぜなら、これを設備するためには各部屋の床下に配管設備を埋め込むことが必要となるからだ。
これより後のイギリス・ロンドンで、明治22(1889)年に鳴り物入りでオープンしたサヴォイ・ホテル(第32回参照)は鉄筋コンクリート7階建てで、完全防音と防火など当時考え得る最高の設備が備えられていた。その最高級の品格を誇ったサヴォイでも、総客室数325室に対して浴室付はわずか70室に留まっていた。それでさえ、支配人のドイリーカートから浴室の数を聞いた業者が目を丸くして「お宅に泊まるお客様は両生類か何かですか?」と驚く時代だった。
まして、木造建築を基本とする明治初頭の日本では、配管以外にも問題があった。2階から上の階にバスルームを作ると、小さなユニットバス程度の浴槽でも200lだから1室当たり200kgという相撲取り顔負けの重量がのしかかることになり、当時の建築でそれを支えるには相当な技術とコストが必要となる。
日本洋酒史に燦然と輝くグランドホテル(横浜)も、写真で見ると洋風建築の壮麗な威容を誇っているが、構造的に見ると“木骨石造り”、つまり木で作った骨組みの外周を薄い石板で覆ったものだった。薄いと言っても素材は石だから、その分余計に躯体(建物の基本構造)に負担がかかる。それもあって関東大震災で跡形もなく崩れ落ち、五十余年の歴史に終止符を打っている。
差別化ポイントとして取り組みやすかった料飲
脇道にそれてしまったが、現在とは異なる当時のホテルの「常識」を想像しつつ、話を明治7年に戻そう。
当時のホテル設備の充実は、鉄筋コンクリートが常識となって久しい我々が想像する以上に、設備投資を要したことがわかる。それに比べれば有名シェフを呼ぶといった飲食面での充実は、遙かに安上がりに集客動機につながるのだ。
そこで、インターナショナル・ホテルの支配人になったばかりのパーヴィス(Purvis.G.T.M)が着目したのが、当時欧米でようやく注目を浴び始めた「新世界の酒」カクテルだった。
インターナショナル・ホテルは、明治元(1868)年にオープンし、後年グランドホテルが出来るまで横浜で最高の品格を誇った。この分野では決定版の資料とされる「横浜外国人居留地ホテル史」(沢護著、白桃書房)によれば、居留地十八番にあった同ホテルは海への眺望が開けており、豪華なビリヤード台が売り物だった。広いバルコニーから海を眺める外国人旅行客が、“横濱絵”と呼ばれる開国時代の錦絵「横濱海岸通十八番異人旅宿之圖」に描かれており、写真も現存している(上掲)。
ところが明治7年、居留地二十番つまりインターナショナル・ホテルに隣接する位置にグランドホテルが開業した。これに客を奪われることを恐れたパーヴィスが、酒と酒場の充実で対抗しようと考えたのである。