IV 赤くなかった“赤富士”(4)

マルティニ・エ・ロッシ社ベルモット
かつての帝国ホテル・バーテンダーのスクラップ・ブックにあったマルティニ・エ・ロッシ社ベルモットの日本文のあるラベル

マルティニ・エ・ロッシ社ベルモット
かつての帝国ホテル・バーテンダーのスクラップ・ブックにあったマルティニ・エ・ロッシ社ベルモットの日本文のあるラベル

JBA版「マウント・フジ」のレシピがオリジナルとは別物の外観を呈するものに変わってしまった理由として、誤記ということも考えられる。しかし、筆者はこの仮説を退ける。ただ、そうして結着を付けたとしても、「マウント・フジ」にはまだいくつかの謎があるのだ。

誤記の2通りの可能性

 これは筆者の推測だが、戦後しばらくたって「赤富士」が出回り始めた後、オリジナルとの違いに気付いた誰かが「アレは『白』を使っていたよ」と言ったとする。それが伝わり、誰が最初かはわからないが後にカクテルブックを書いた人が「マウント・フジ」のレシピを書くとき、その伝聞情報を生かそうとしたとする。しかし、まさかマイナーなイタリアン・ベルモットの白を使うとは思い至らず、「アレは『白』」というならばとラムを白にしたのではないだろうか……。

 もう一つの可能性も考えてみよう。横浜コードルリエ商会との直接の窓口になった品川潤のレシピこそがマドリードに出品されたオリジナルだとしたら、どうだろう。そのレシピに仮に

1/3 Ron Bacardi. (Bianco.)
2/3 Martini e Rossi Vermouth

と書かれていたとする。それを「大日本基準コクテール・ブック」(以下「大日本基準」)に掲載する際、横文字に慣れていなかった当時の植字工が

1/3 Ron Bacardi.
2/3 Martini e Rossi Vermouth (Bianco.)

と、本来「バカルディ・ラム」の行に置かれるべき(Bianco.)の組みをマルティニ・エ・ロッシのベルモットの行に誤って植字した可能性ももちろん考慮しなければならない。

 もしこれが誤記なら、現在出回っているレシピこそがオリジナルに近く、ホワイト・ラムを使いさえすればベルモットの赤を選ぶか白を選ぶかは作る人の自由になり、“赤富士”は“赤富士”であり続けることができる。

誤記とは考えられない

 しかし、誤記とするには、以下の難がある。

(1)世界的なコンクールで入選した、JBAにとって言わば「金看板」であるカクテルを、同協会のオフィシャル・カクテルブックに当たる「大日本基準」でわざわざ巻頭の1ページを割いて掲載されている状況から、書き間違える可能性は低い。

(2)「大日本基準」巻頭の辞の末尾にある「大日本基準コクテールの研究に携はれたる方々」のリストに、「ドリンクス」の編集を始めてから6年後の品川も単独で表記されている。そればかりか、昭和8年に日比谷の美松百貨店で開催された「世界洋酒博覧会」会場で配布された「洋酒の知識」をはじめ、JBAの出版物をいくつも出していた彼は、昭和11(1936)年の「大日本基準」出版の段階では、キャリア的にも、巻頭に掲載された「マウント・フジ」のレシピに誤りがあれば誰にも遠慮することなく、その間違いを指摘できる立場にいた。

(3)「大日本基準」に原語で表記された「Bianco」はマルティニ・エ・ロッシ社があるイタリア語表記であり、「バカルディ」を「白」と指定するならばその産地キューバの公用語であるスペイン語で「Blanco」(ブランコ)と表記していなければならない。

 これらの理由から「大日本基準」に掲載されたレシピこそが、スペイン・マドリードに送られ佳作に入選したオリジナルの、誤りのない記述であると筆者は断じた。とくに(3)は決定的で、「I」と「L」の違いは大きいのである。

 このようなわけで、オリジナルの“赤富士”は赤くなかったというのが本当だと考えたい。

 しかし、それにしても「マウント・フジ」にはまだ謎がある。JBA機関誌「ドリンクス」の編集者だった品川潤が、戦後同誌に「マウント・フジ」誕生時の貴重なエピソードを寄稿した記事がある。それを読んだときから、筆者には解けない謎と疑問が気になっていた。

 一つは、レシピを考案したメンバーと協議の様子である。

 日本バーテンダー協会の機関誌「ドリンクス」掲載の品川の寄稿記事によれば、JBA版「マウント・フジ」誕生のきっかけはこうだ――1933年3月、当時マルティニ・エ・ロッシ社の輸入代理店だった横浜コードルリエ商会から、JBA機関誌「ドリンクス」編集者だった品川潤に、国際カクテル・コンクールへの参加が打診されたという。品川も基本的にこれを肯定している。品川はさらに、話がもたらされてからレシピをスペイン向けの便に託すまで、わずか1日しかなかったことにも触れている。

 しかし、誰もがケータイやパソコンで日本中と言わず世界中の人とリアルタイムで連絡を取り合える現代ならともかく、電話でさえも大きな店やホテルにしかなかった時代である。果たして品川が言うように「翌日緊急理事会を招集して、役員一同で合議」ということが可能だったのかということに、まず疑問がある。また、そもそも何人もの人間が集まって会議を開いて一つのカクテルを考案するという作業が可能だろうか、という素朴な疑問もある。

 次回、そのことともう一つの謎について説明し、「マウント・フジ」についてのお話を締めくくりたい。

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。