II スパイ・ゾルゲが愛したカクテル(5)

日本に洋酒文化が定着していったプロセスを読み解く第2シリーズ。映画「スパイ・ゾルゲ」に登場する洋酒の時代考証の丁寧さに筆者は感銘を受けつつ、さらにゾルゲが実際に口にしていた酒の探求を進める。

堅苦しいほど史実に忠実な映画

「スパイ・ゾルゲ」(2003年、日本)

 さまざまな資料に目を通した後で2003年6月に公開された篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」をあらためて見てみると、この映画が史実や証言、供述調書の発言を丹念に追っていることがわかる。手抜きや歪曲を“演出”の便利な二文字で正当化する場合の目立つ昨今には珍しい、堅苦しささえ感じるほどの生真面目な作り方は、監督の人柄なのだろうか。

 宮城与徳役の俳優が沖縄出身なら「ウチナンチュ」の語尾が上がるはずなのだが、そこは目をつぶろう。筆者も沖縄の方が多い自動車工場で働いた経験がなければ、向こう特有のイントネーションを知るはずもなかったので。

 小物に関して言えば、マイクロフィルムをソ連大使館員セルゲに渡す際の偽装に使った煙草「チェリー」のパッケージから、バー「ラインゴールド」に並べられた「ホルステン」のボトル、個々の台詞に至るまで、登場人物の会話をつなげるための変更以外はほぼ事実を踏襲している。

その「バランタイン」はあったか?

「バランタイン」30年のボトルの例
考証の参考になる「バランタイン」30年のボトルの例。左の現行品と比べると1954~60頃と推定される右のボトルのラベルの特徴がわかる。
ボトル
上の写真の右のボトル。ゾルゲの時代のものでは銘の次の行に「IN USE FOR OVER 100 YEARS」と入るはずである。映画の中の瓶は、このボトルと同様エンブレムが赤単色で「LIQUEUL」表記がある。ラベル下部の「New York」表記から対米輸出用、加えて「Elgin」表記の前に使われていた「Glasgow」表記から1954年~1960年頃の生産ということがわかる

 では本稿の眼目である洋酒については、どうか。

 ゾルゲがタイプライターでレポートを打っているシーンで酒瓶が一瞬映る瞬間は、洋酒好きには見逃せないシーンだ。

 問題のシーン(「スパイ・ゾルゲ」の48分17秒辺り。ドイツ大使館で同じ東部戦線にいたことを知ったオットーと意気投合し、ドイツ語の「清しこの夜」が流れた次のシーン)で画像を一時停止して拡大すると、そこに映る酒は「剣菱」と壽屋の「白札」(1929年発売)と思われる1本で、あとの3本は「バランタイン」と「ラフロイグ」の30年、そしてはっきりとは見えないが特徴ある瓶の形から「オールドパー」があることがわかる。

 筆者がまず意外に思ったのは、これらのブランドだった。確かに現在では3本ともウイスキーの代表格だが、「オールドパー」はともかく、あんな今風のバランタインや「ラフロイグ」が当時の日本にあったのか? そう首をかしげつつ映画を見ていたのは筆者だけではないだろう。

 まずバランタインについて調べた結果を書くと、戦前のバランタイン「FINEST」は総じて褐色ないしコカ・コーラの小瓶に近い青系の透明な瓶だった。

「なんだ、あの映画に出てきたウイスキーは、そこらの酒屋から買ってきて並べただけだったのか」――そう思われた読者もおられるだろう。当初は筆者もそう思っていた。そもそも「バランタイン」でもスタンダード(普及品)である、赤い封蝋マークがラベルの下部にある「FINEST」で、丸瓶なんて見たことがない。

1954年のバランタイン広告
1954年のバランタイン広告。すでにLiqueur表記が消えている(「Standard Cocktailbook」〈室井良介著・品川潤編〉掲載の広告)

 古いバランタインはロゴの上部に1827年の創業から何年という表示が「around100(~1927)」「over100(1928~1953)」「over125(1954~1963)」「over135(1964~)」と変わるので、それが判読出来れば一発なのだが、残念ながらビデオの画像からは読み取ることが出来ない。どうせゾルゲの時代にはあり得ない偽物に違いないから、それを前提に考証をかけてみよう。そんな不埒な考えで古いバランタインを探し始めた。

 すると出てきたのだ、1930年代の「FINEST」の丸瓶が! 簡単に終わると思っていた映画「スパイ・ゾルゲ」のバランタインの鑑定は振り出しに戻り、急遽書き終えていた原稿から今回の分だけを差し戻して全面的な書き直しを迫られることとなった。すでにゾルゲの話はアップし始めているから猶予はない。文脈の流れから後に回すわけにもいかない。ひとの作った映画に茶々を入れようとした筆者は顔面蒼白、逆に毎週水曜更新で日々原稿のストックが削られる結果となり、迫り来る締切との闘いになった。

 まず、ラベル中央の赤単色の紋章が4色刷りに替わったのは日本の輸入ベースでは1972年頃(海外の古酒に詳しい方のブログでは60年代半ばとしたものもある)、映画に使われた「バランタイン」と同じ「FINEST」でかすかに判読できる「Liqueur Blended Whisky」の表記があるものはそこからさらに古い1928年~1953年生産分の特徴(20世紀初頭~1927年はScotch Pure Liqueur Whisky等と表記が変わる。また、対米輸出版は1964年まで現地の要望で「Liqueur」表記が使われていた。面倒ついでに言うと17年以上のプレミア物ではその後も長く続いた「Liqueuer」表記だが、「FINEST」では早い時期に変更されている)なのだが、筆者がためつすがめつ古い「FINEST」の写真を見比べた結果、ゾルゲの時代に該当する100年表記のバランタインと125年表記の物の違いはごくわずかで、生産地の表記が125年表記(1954~1963)の後期に「Glasgow of Dumbarton」から「Dumbarton of Elgin」に替わっていることがわかった。

ボトルとラベルそれぞれの考証

 映画のバランタインをよく見ると個々の文字は判読できないものの、左側から見たおおよその字の形を比べると125年表記の後期から135年表記の時代のラベルであることがわかる。つまり映画に使われたバランタインのラベルは対米輸出された1960~1963年の生産分ということになる。

 瓶の方は緑瓶が限定的に使用された80年代のバランタイン30年、もしくは販売年代は限定できないものの17年物に使われたものだろうと推理した。

 それならば、高級スコッチのラベルには不自然な皺があることも納得できる。1940年代後半から生産された普及品(FINEST)のスクエア型、つまり平面で構成された瓶に貼ってあったラベルを微妙な3次元曲面の上級品の瓶に貼るのだから、どんなに苦労しても上端部の左右には皺が避けられない。

 またラフロイグも同様に戦前緑色の瓶で出ていた例は「BERRY’S ALL MALT」と書かれた1903年頃に流通していた瓶以外にはラフロイグのオフィシャルブック的に使われる「The Legend of Laphroaig」にも見当たらず、実際ゾルゲの時代に近い1930年頃のラフロイグは日本酒の一升瓶に近い茶色をしており、40~50年代のラフロイグも茶色がかったアンバーならともかく、鮮やかな緑瓶は使われていない。ラベルの文字も1900年代に入ってからのラベルではシンプルなデザイン・コンセプトは共通しているものの、89年以前のものは書体が映画で使われた「ラフロイグ」とは明らかに異なっている。

 映画に登場する「ラフロイグ」のラベル、とくに数字の書体が最も近いのは92年に日本の輸入代理店が千代田酒類からサントリーに替わった頃に入ってきた10年物で、瓶の形状はその頃以降の大型瓶に近いのだが、映画では瓶の肩口に「30」と表記されている。これも筆者は資料から見た結果、スタンダードのラフロイグに貼られていた「YEARS 10 OLD」の肩口ラベルをいったん剥がして「30」に書き換えて貼り直したものと推定した。

小道具の心意気を感じる

 なんとか自分なりの結論を出し終えたとき、筆者はちょっと感動した。いや、感銘を受けた、に近いだろうか。酒瓶が登場するシーンは2回(ブーケリッチの家の最初のシーンでも古いウイスキー特有の鶴口瓶が見えるが、残念ながらラベルが映っていない)あるが、どちらも1秒足らずのほんの一瞬でしかない。当然、予算も時間も限られていたことは想像に難くない。

 そのなかで古い「バランタイン」、それも通常「オールド・ボトル」と称されてバーで珍重される1970~80年代物どころか半世紀近く前のラベルをどこからか探してきて貼りつけていたことになる。1930年代の実物は無理としても、なんとかしてゾルゲが飲んでいたであろう古い酒、それも酒と女に金をつぎ込んでいた彼が口にしていたであろう高級品に近付けようとした、小道具の方の思いを見た気がする。

 しかし「洋酒文化の歴史的考察」という題名を掲げて本稿を書いている以上、ゾルゲが実際に飲んでいたであろうウイスキーそのものにたどり着かねば、どう言いつくろっても趣味の悪い揚げ足取りと感じてしまう読者もおられるだろう。残念ながら、後世の証言にも、筆者が当たったゾルゲ関係の書籍にも、ゾルゲが好んだウイスキーの具体的な銘柄は書かれていない。

 しかし、それを探し出すことが不可能ではないことを、次回説明しよう。

(画・藤原カムイ)

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About 石倉一雄 129 Articles
Absinthe 研究/洋酒ライター いしくら・かずお 1961年北海道生まれ。周囲の誰も興味を持たないものを丹念に調べる楽しさに魅入られ、学生時代はロシアの文物にのめり込む。その後、幻に包まれた戦前の洋酒文化の調査に没頭し、大正、明治、さらに江戸時代と史料をあたり、行動は図書館にバーにと神出鬼没。これまでにダイナースクラブ会員誌「Signature」、「男の隠れ家」(朝日新聞出版)に誰も知らない洋酒の話を連載。研究は幻の酒アブサン(Absinthe)にも及び、「日経MJ」に寄稿したほか、J-WAVE、FM静岡にも出演。こよなく愛する酒は「Moskovskaya」。