ゴールデン・ウイークまっさかり。みなさんも家族サービスや行楽で楽しく忙しい時間を過ごしてらっしゃると思います。自分も連れ合いと関西旅行などをして、英気を養いました。ただ、食べ過ぎてしまったので自転車通勤では足りず、連休後半は専らジムで汗を流して、太くなってしまったメタボ腹をなんとか細くしようとあがいています。
いちばん好きなのは小樽のすし!
いつもはゴールデン・ウイークと言っても休みがあってなきがごとし、な状態だったが、今年はなんとか暦通り休むことができて、それなりに落ち着いた連休になった。こういうときにふと頭に浮かんでくるのが、中学時代に父と食べた、ちょっと後味が悪いすしのことだ。
それは自分がまだ中学の2年生の春。北海道の小樽に住んでいた。
小樽と言えば、今も昔もすしが名物で。というか、当時の小樽はすしぐらいしか自慢できるものがない、運河もまだ完全には修復されておらずヘドロの臭い匂いを漂わせていた、北国のそう珍しいわけではない地方都市だった。
そんな小樽で、とりたてて豊かでもなく、つつましく暮らしていた我が家では、月に一度の外食、奮発してすしを食べに行くのがなによりも楽しみだった。
そのときには、家族そろってヨソ行きのお洒落をして中心街に出向いたのだった。いろいろな街を見た今にして思えば派手さのない繁華街なのだが、それでも夜になると音楽が流れ、キラキラと街灯が輝いて、とても豪華な場所に見えたものだ。市民は親しみと若干の憧れをもって、そのあたりを「マチ」と言っていた。
「今日はマチへ行って、宝寿司さん行くんだからね!」そう言い聞かせる母親のちょっとうれしそうで誇らしげな顔は忘れられない。
小学生時代から大食漢だった自分は、大好きだったその店で、たらふく、文字通りベルトがちぎれるぐらいおいしいすしを食べた。食べ過ぎて動けずにいたから、小上がりでしばらく寝かせてもらうことが常だった。
「坊や、よく食べるねぇ。それだけたくさんおいしそうに食べられると、こっちもうれしくなるべさや」。地元の名店の今は亡きご主人が言ってくれた、その笑顔も忘れられない。
考えてみれば、当時の小樽のすしは、ものすごく技巧を凝らしたようなものではなく、天然の素材を丸ごと出すような、よく言えば素朴、悪く言えば工夫が足りない面もあったかもしれない。それでも、当時の自分は地元のすしが大好きで大好きでしかたなくて、「世の中でいちばん好きな食べ物は、小樽のすし!」と胸を張って言っていたものだ。
小樽はオレには狭すぎる
さて、素朴な上荻少年が中学生になって生意気盛りのころのこと(今、勘定してみたら、父が29歳の頃に自分が生まれているから、あの頃の父親より、今の自分はずっと年上……。それに気付いて愕然となる。こんなに情けなく、頼りのない自分が、あの頃の父親より年長だなんて! 嗚呼!)。
少し勉強ができた自分は、得意になって、その状態を誇り、「今の小樽じゃあ、オレには狭すぎるかも」なんて傲慢に思うようになってしまう(ああ、恥ずかしい)。そして大都市の高校への進学を夢想するようになってしまう。
その自分の妄想のような夢に調子を合わせてくれたのが母で。
素直に地元の公立へ行くのではなく、他の地域で進学するとなればお金がかかる。そのためにはサラリーマンの父親の給料では心許ないので、自分も夜に働きに出る、と母は言い出した。
もともと、山っ気が強く、人見知りせず、社交的な性格の母親は、確かに商売に向いていたらしく、その前にやっていたセールスの仕事でも、いい稼ぎを得ていたようだ。そしてそれをもっと大々的に手広くやるために、夜の仕事に出ることにしたのがその頃だった。
一方の父は、小樽の中小企業の経理課長。真面目一方で、周囲から「先生」という綽名を付けられた、酒も飲めない堅物だった。
天上界のすしの塔
そんな父に、自分は、中学2年のゴールデン・ウイーク前、「札幌で、中学生向けの高レベルゼミのある予備校に通ってみたい!」と言い出した。
小樽ではなく、大都市の札幌で、受験用のゼミに通ってみたい、という、ちょっと不遜で背伸びした自分の態度に、父は、複雑な顔をしていた。
それでも、いつもの母親の強引な説得に押され、結局、父親は、自分とその予備校へ下見に行くことになった。
確か、5月3日だったように思う。父親が車を運転して、自分をその予備校に連れて行ってくれた。
その日は下見をし、予備校の関係者に話を聞いたはずだが、詳細は覚えていない。ただ、授業料が高すぎて、通うことは見合わせる、という結論になったと、思う。
その帰り、まだ昼間だったと思うが、父親が札幌の某デパートに連れて行ってくれた。
札幌のデパートといったら、小樽の人間からすると年に1回か2回行けるかどうかの、“天上界”のような場所! そこに行ける、ということで自分は妙に興奮していた。
父親も、最近、母親にずっと押され気味な家庭内の姿とは違い、誇らしく、父親らしい威厳を見せようと思っていたのだろう。とてもうれしそうな顔をしていた。
デパートをぶらつき、さて、昼飯、ということになる。
もちろん、自分は、デパートの中のレストラン街で食べるんだと思っていた。
ところが父親の様子がおかしい。明らかに、つれない素振りをしている。
ただ、流れで、レストラン街へ来てしまった。
そこで父親は、しぶしぶ、とでもいいたげな風情で、自分に聞いた。
「何が食べたいんだ?」
札幌のデパートのレストラン街という、きらびやかさの果てのような場所に来た中学生の自分は思いっきり舞い上がっていた。そして、キョロキョロと見回していて、とある店先のショーウィンドウが目に飛び込んできた。
今まで、小樽や札幌でも見たことがなかったような、東京資本のすしチェーンの豪華なショーウィンドウ。その塔のようなすしデコレーションの威容に目を奪われた自分は、大きな声で叫んだ。
「あれ! すしがいい!!」
お父さん、ごめん
そのときの父親の姿を自分は未だに、忘れることができない。
それまで「大人がキレた」というのを見たことがなかった。ましてや、あの真面目な父。怒るにしても、ちゃんと理屈があって、自分を怒っていた。
その人が、怒髪天を衝く、というか、身体を1.3倍ぐらいに脹らませてキレたのだ。
「お前!……この!……何様だと思って……!!!」
そのときの父親のことを、今考えると、とてもよくわかる。自分の息子が分不相応なことを要求し始めていること。妻もどんどん表に出ようとしていることに対する想い。子供が、何も知らないくせに、生意気になってしまった、それを許した苦い気持ち。そして子供の要求に、素直に応えられない自分の甲斐性のなさ……。
そんなことが全部いっぺんに彼に襲いかかってきて、父はキレたのだと思う。
それでも父は、その思わぬ反応にびっくりしてやめようとした自分を、この手を引っ張るようにしてそのすし屋へ入った。
あのときの父の思い切りはなんだったんだろう……。
そのお店で食べたおすしは、デコレーションされた店頭のディスプレイと違って、そんなにおいしいものではなかった。
味どころか、キレた父親の姿を見て、さすがに後悔した自分は、「ごめん、お父さん、ごめん」と何度も何度も言っていたように思う。
その言葉に、父は、無言でうなずいていた。
ゴールデン・ウイークと言うと、そのときのすし屋の店先でキレた父の姿を思い出す。
あのとき、父をあんな気持ちにさせた自分を、今でも恥じている。
その後大学を出て就職して間もない頃、十分な親孝行もしてあげられないまま、父は亡くなった。
この夏、23回忌が地元で行われる。
小樽のすしを食べる。