セルビア側の入国管理官は手元の小さな窓にかがみ込むようにして筆者を凝視した。
国境に異常なし
セルビアにはほとんど日本人がいないことは事前のリサーチで知ってはいた。まして地元の人しか使わないようなチェックポイント(国境検問所)では日本のパスポートも日本人も滅多に見ないから……言ってみれば単に日本のパスポートが珍しかったのが遅れの原因だったらしい、と走り出した車中で説明された。動物園の狸やアライグマの気持ちが少しだけわかった気がする。
日本を出国する前に何度も思い悩んだハンガリー/セルビア国境の通過はあっけない形で終わった。国境には何カ所かのチェックポイントがあり、基本的に難民は徒歩か電車で超えることになる。しかし筆者が通過したポイントは車両だけが通れるらしく、歩行者の姿は見掛けなかった。
なるほど、そういうことだったのか、と納得してホッとした筆者は国境通過で少々浮かれ気味だったせいもあり、フランスの小説に出てくるお調子者のようにハンドルを握る彼に言ってみた。「いや、僕だってトラブルに巻き込まれたいとは思いませんよ。スムーズに通れるチェックポイントを選んでくれたショーベルさんにも感謝しています。でもちょっとだけ、本当にちょっとだけなんですが国境付近で難民と遭遇することを期待していなかったかと言われると……」オーストリア人は真っ直ぐに続く道路から視線を動かすことなく、一言だけ口を開いた。
「……イシクラさん。今回の視察の目的は何でしたっけ?」
地平線の国
日本人がほとんど訪れたことがないセルビアという国に入って、まず驚いたのは“地平線”だった。高速道路を疾走する車の周囲360度が地平線なのだ。収穫が終わった畑、畑、畑。とにかく140㎞ですっ飛ばすアウディが走れども走れども、風景が変わらない。突き抜けるような青空をポカンと口を開けて眺めているうちに徐々に建物が目立ち始め、やがてハンガリーでは見ることのなかったクリル文字とアルファベットを併記した道標が「ノビサド」を表示し始め、市街地に入る。
ブダペストの街並みは江戸や明治の日本人が驚嘆した「近代的なヨーロッパ」そのままの姿だったが、セルビアの街は「鉄道模型の風景に出てきそうなヨーロッパののどかな村」という表現がいちばんしっくり来るような気がする。
車がノビサド市の中心部に入るとビルが目立ち始めるが、日本のものとは明らかに違う。日本にいくらでもある殺風景なビルとどこが違うのかといわれると困るのだが、強いて言えば実用一点張りのコンクリート打ちっぱなしの外装で、それも雨と経年劣化の浸食で少々痛々しささえ感じる建物、と言えば読者の方々にもイメージしていただけるだろうか。コンクリート造りの無機質な社会主義風ビルが歴史的な建造物と並んでモザイクのように混在している。
調べてみるとセルビア全体で人口は900万人だが、首都のベオグラードに135万人が集中しており、第二の都市ではあるもののノビサドは人口38万人。群馬県の高崎市と同じくらいの規模の、のどかな街だ。セルビア全体で在住日本人(在留邦人)は113人で、外務省発行の「平成25年版海外在留邦人数調査統計」で見てみると、フランスの35,000人やドイツの38,000人と比較するのは無理だとしても、チェコの1,600人、ポーランドの1,200人と比べてみても、その1/10 しか日本人はいないことになる。
113人の大半は首都ベオグラードとその近郊に集中しているだろうから、ノビサドに住む日本人は38万人中に10人もいないに違いない。ブダペストでは観光スポットに話を限れば中国人や韓国人を結構見かけたことは先述したが、セルビア滞在中は日本人はもとよりアジア人自体、滞在中に一人も見かけることがなかった。
ベオグラードにはBLOCK70 という中華街があるそうだが、中国人だけで固まって生活しており、セルビア人との交流はほとんどないと言う。そんな異国の街にはどんな人たちがそんな生活をしているのだろう。アウディの車窓から眺める通行人の服装は小ざっぱりしており、最新モードとはいかないにしても筆者の地元である中野区の下町を歩いている人たちの服装とさして変わりがない。若い人たちもさすがに秋葉原や原宿に居そうな尖がった服装の人はいないが、日本の普段着で歩く人たちと大同小異だ。物乞いや観光客にすり寄って来る人も見当たらない。
懐かしさを感じる街並み
ユーゴスラビアが分離独立したときアドリア海を擁するクロアチアに観光名所をそっくり持って行かれたこともあり、観光はセルビアの主要産業ではないからか、それとわかるような観光客も見かけない。道路に陥没は散見されたが丁寧に補修が施されており、小さな回転木馬がある遊園地や街の情景、人々の服装は初めて訪れたにもかかわらず昭和40年代の北海道で子供時代を過ごした筆者に郷愁を抱かせた。
東京に来たばかりの田舎の子供ばりに街の様子を眺め回す筆者を載せた車はドナウ川沿いのペトロパラディンにあるレストラン「アクア・ドリア」の駐車場に滑り込んだ。車中のやりとりでハンガリーがどうだったかをオーストリアから来たショーベルさんに尋ねられて「そう言えば、ハンガリー滞在中は朝から晩までパーリンカのことで頭がいっぱいでグヤーシュ(ハンガリーの代表的な郷土料理。パプリカをたっぷり使った煮込み)も食べていない」と筆者が答えたので、今日の晩飯はセルビアの郷土料理でいくという。
「アクア」(水)の名が示す通り、このレストランはノビサドでは有名な魚料理の店だそうで、木造の店内は山小屋のような雰囲気を醸し出しており、お爺さんから孫まで一堂に会したらしき家族連れやカップルで賑わっている。お客の様子から察するに、「年に一度、この店に来るのを楽しみにしている」感じの、少し贅沢なレストランらしい。
予約しておいたから、とドナウ川が一望できるバルコニー席に案内される。待ち合わせもうまくいき、国境も無事に通過し、日本人が滅多に行かないセルビアに足を踏み入れた筆者の機嫌が悪かろうはずがない。筆者を迎えてくれたレストランは眺望も上々で川面を撫でる涼風が肌に心地いい。